話題
ナンシー関が貫いた平和主義 コンテンツ飽和時代の「テレビ批評」
2002年6月に39歳という若さで急逝した、消しゴム版画家/コラムニストのナンシー関。2018年8月には、フリーライター・武田砂鉄が編集した「ナンシー関の耳大全77 ザ・ベスト・オブ『小耳にはさもう』」(朝日新聞出版)が発売されるなど、その批評はいまだに注目を浴びている。ナンシーの言葉は、なぜ今も古びることなく読者をひきつけるのだろうか。「顔面至上主義」というスタイルで唯一無二の存在となった、ナンシー関の成り立ちから、今、求められる「テレビ批評」のあり方について考える。(ライター・鈴木旭)
亡くなって20年近く経つ今も、ナンシー関は特別な存在として支持されている。その才能は、幼少期から芽生えていたようだ。
ナンシーは、青森県に3人きょうだいの長女として生まれた。言葉を覚えるのが早く、2~3歳の頃には1人で絵本を読むような早熟さが見られた。小学校時代は、パラパラ漫画をつくったり、クラスメートの消しゴムに文字を彫っていたずらしたりする、ちゃめっ気のある手先の器用な少女だったという。
当時の青森県には民放が2局しか放送されていなかった。後にテレビ批評する立場を考えると、環境としてはあまり恵まれていなかったようだ。それを穴埋めするかのように、高校時代のナンシーは雑誌文化に傾倒する。「STUDIO VOICE」「宝島」「ビックリハウス」など、サブカルチャー系の雑誌に夢中になった。また、高校時代にクラスで少しの間だけ消しゴム版画が流行し、ナンシーの作品がクラスメートたちから絶賛されている。
一方で、高校3年の時にスタートした『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)に熱を上げ、毎週のようにテープに録音。次週の放送までに7~8回はリピートして聴いていたという。(上記は横田増生著『評伝 ナンシー関「心に一人のナンシーを」』(朝日新聞出版)、2003年発行の『KAWADE夢ムック文芸別冊 トリビュート特集ナンシー関』(河出書房新社)より)
この時点で、自身の消しゴム版画が評価されること、ビートたけしには鋭い批評性があることを認識していたことだろう。そう考えると、すでに高校時代にはナンシーの土壌はできあがっていたと言える。
ナンシーは高校卒業後に上京し、浪人生活を経て1982年に法政大学文学部第二部(夜間部)に進学。同年11月、月刊誌・広告批評(2009年4月号を最後に休刊)などの発行元・マドラ出版が主宰する「広告学校」にも入学した。
しかし、テレビばかり見ていた彼女は1984年に大学を中退。時間を持て余していたこともあり、在学中から再び消しゴム版画もつくっていたようだ。
翌年、広告学校で知り合った友人の手帳にそのスタンプを押したところ、コラムニスト・えのきどいちろうの目に留まる。その縁がつながり、ライター事務所「シュワッチ」でイラストレーター(消しゴム版画家)として籍を置くことになった。
当時、若年層の男性向け情報誌『ホットドッグ・プレス』(講談社)の新人編集者だったいとうせいこうが、えのきどからペンネームを名づけるよう依頼され、“ナンシー関”と命名。以降、この名前で活動することになる。
この件について、いとうは「80年代の当時はイラストレーター全盛のころで、<ペーター佐藤>や<スージー甘金>みたいなふざけた名前が流行(はや)っていました」「その場のノリですよね」と、語っている。(先述の書籍『評伝 ナンシー関「心に一人のナンシーを」』より)
古くからミュージシャンの間で「ミッキー吉野」「ジョー山中」など、欧米のニックネームやファーストネームを思わせる芸名はあったが、サブカルチャーが盛況していく中で、雑誌や広告関係者が「その違和感を面白がる」という独特の文化があったと推測される。「ナンシー関」という名前は、実に1980年代らしいネーミングだったのだ。
1985年3月10日号の『ホットドッグ・プレス』を皮切りに、ナンシーの消しゴム版画に対する評判は高まっていく。翌年には、同誌の芸能人に関連した連載コラム「対岸に火をつけろ」を担当。文章でも注目を浴びはじめる。1988年には、『月刊カドカワ』(角川書店)の6月号から「テレビ目抜き通り」の連載がスタート。ここで「コラム+消しゴム版画」という組み合わせが誕生した。
その後もこのスタイルでいくつもの連載を持ち、『ナンシー関の顔面手帖』(角川文庫)や『何様のつもり』(世界文化社)など、話題作を次々と出版。1990年代を代表するコラムニストとして、「ナンシー関」の名は全国区となっていった。
そんな活躍の裏で、過度のストレスがナンシーを襲うことになる。原稿の締め切りに追われ、タバコを1日20~30本吸い、暴飲暴食によってストレスを発散するようになっていく。不摂生がたたり、少し歩くだけでも息切れするようになっていた。周囲から生活習慣を改めるよう注意の声はあったが、聞く耳を持たなかった。
2002年6月、友人と食事をしてタクシーで帰宅する途中、ナンシーはついに意識を失ってしまう。その後、救急車で病院に運ばれたが、帰らぬ人となった。死因は虚血性心不全。39歳という若さだった。
ナンシーのコラムは、テレビに登場する芸能人に対して鋭い眼力をもって書かれていた。その才能は、テレビ関係者だけでなく、小説家や民俗学者からも絶賛された。なかでも、ダウンタウン・松本人志がナンシーを高く評価していたことは有名な話だ。
実際に松本は、1994年の女性向け月刊誌『CREA』(文芸春秋)5月号でナンシーと対談。同誌の中で松本は「今、お笑いの批評をきちんとできるのは、ナンシーさんとみうらじゅんのふたりだけ」と語り、ナンシーも笑いにストイックな松本を「孤高の人」と表現している。
両者ともにお互いのコラムで取り上げており、それぞれの言葉でリスペクトし合っている。同時代の信頼できる芸人、コラムニストとしてシンパシーを感じていたのだろう。
このことで、ナンシーは「松本から一目置かれる存在」として業界内に知れ渡り、批評される側であるテレビ出演者からの支持をも集めるようになっていった。(2003年発行の『KAWADE夢ムック文芸別冊 トリビュート特集ナンシー関』(河出書房新社)より)
『週間朝日』(朝日新聞社/現・朝日新聞出版)2002年6月28日号の「追悼 ナンシー関享年39の「天才」」によると、ナンシーは朝8時ごろに起きて、夜午前1時ごろまで、4、5台のビデオデッキを備えてテレビを観察し続けていたという。
また、ナンシーは1993年12月に発売された自身の書籍「何をいまさら」(世界文化社)の中で、「いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは「つまらない」である」「見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ」と記している。
独自の批評スタイルの宣言であることと同時に、テレビに対して異常なまでの執着を感じさせる言葉だ。なぜナンシーは、テレビ批評にここまで自信を持てたのだろう。それは、都心から遠く離れた青森で育ったことが大きく関係しているように思う。
私自身もそうだが、ある時代までの地方出身者にとって、テレビは特別なものでしかなかった。テレビはエンタメであり、情報であり、人間観察の対象でもある。現実とはまるで違う「つくりモノ」であることを理解しながら、ドラマやバラエティーを眺めていた。
田舎には都会のように高層ビルもなく、オシャレな人間もいない。若者だけが流行を取り入れて、風景に合わない浮いた格好をしていた。テレビタレントに比べて、近くにいる人間は、もっと退屈で、面倒臭く、生々しい。
そんな現実とは正反対の「ツルリとした虚像」としてテレビは存在していた。だからこそ、「巧みなうそ」に心躍らせ、またガッカリしたものだ。
もちろんナンシーの才覚が際立っていたことを疑う人間はいない。その上で、幼少期を田舎で過ごしていたことは「顔面至上主義」に拍車をかけたに違いない。
注目したいのは、コラムニストより先に消しゴム版画家としてデビューしたことだ。遠慮のない批評で切り込む一方で、その内面からは、自己主張することに気後れする性格も見え隠れする。人が評価してくれることを優先し、心血を注ぐタイプだった気がしてならない。
だからこそフラットにタレントを観察し、「自分がなにを言えば人が喜ぶか」を理解したうえで言葉をつむぐことができたのではないだろうか。
ナンシーの言葉には、身近でありながら本性を射抜くような力がある。たとえば2001年11月に発売された著書「何だかんだと」(角川文庫)では、とんねるず・石橋貴明のスタンスの変化について書いている。
「今でも基本的なキャラは「俺様」ではあるが、以前にはみじんもなかった「渇望」みたいなものが現れはじめているのだ。石橋は、まず自分が持っていない物を認め、それを手に入れようと努力している」「それはどうも「トラディショナル」ということでくくることができる「モノ」じゃないかと思う」
たしかにある時から石橋は、様々なメディアで「今の芸人はネタちゃんとしてるな」と自身の若手時代をへりくだって語るようになった。ほとんど下積みもなく人気を得たとんねるずは、いわゆる「代表的なネタ」を持たずしてブレークした。ナンシーが指摘している通り、それはお笑い芸人にとって「トラディショナル」とも言うべきものだ。
また、2018年3月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)が終了すると、石橋の「通」で「博学」な一面にスポットを当てた深夜番組『石橋貴明のたいむとんねる』(前同局・2020年3月終了)がスタート。「アイドル」「歌謡曲」「漫画」「野球」などをテーマとした中高年向けのトークバラエティーで、昭和の時代の細部にわたる情報を、喜々として語る石橋が印象的だった。
2020年4月からスタートした新番組『石橋、薪を焚べる』(前同局)でも、以前のような“やんちゃ”なスタンスは影を潜め、すっかり文化人の道へと駒を進めているように見える。
約20年前にナンシーが見抜いた石橋の「渇望」は、現在ではタレントとしてのアイデンティティーと言っていいほどに大きくなった。ほとんど予言めいたコラムである。
石橋、薪を焚べる
— 【公式】石橋、薪を焚べる (@makiokubel) May 18, 2020
今夜24時25分からになります🔥
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ブロガーやYouTuberの存在が一般的になり、昨今では偏ったジャンルを追求するスタイルは珍しくなくなった。しかしナンシーの姿勢は、そうした類とは一線を画している。
そもそも周囲から求められて消しゴム版画家、コラムニストになっている。自分から積極的にアピールするタイプではなかったはずだ。自分の得意分野を知りながら、ニーズがなければ踏み込まない。求められるのであれば、できる限り応じる。連載を10誌以上抱えていたあたりに、彼女らしい性分がうかがえる。
また、ギャラについても執着はなかったようで、「相手も触れず、こちらも聞かずのどんぶり勘定が業界の不文律。振り込まれてみて、ああそうなのという感じです。交渉する気もあまりない」と語っている。(1992年6月20日:ナンシー関さんギャラはどんぶり勘定のまま(マイポケット):朝日新聞紙面より)
ここ最近、YouTubeの参入者が急増した背景には、動画の再生回数によって広告収入を得られる仕組みが大きく関わっている。もし、令和の時代に健在なら、ナンシーはそうしたビジネスに興味を持たなかったように思える。
弟子をとらなかったのも、自分というフィルターがいかに特別で、またいかに脆弱(ぜいじゃく)なのかをよく知っていたからではないだろうか。イラストにしろ、文章にしろ、表現には責任が伴う。ましてやテレビタレントの批評など、もっとも気を遣う作業だ。今で言う「炎上商法」と呼ばれるものとは、対極に位置する仕事である。そこに他人を巻き込むのは気が引けたのだろう。
YouTubeをはじめ、Netflixなどの動画サービスも広まり、コンテンツがますます飽和している時代。ナンシーのような忖度(そんたく)しない精度の高い批評性は、当時より求められているのではないだろうか。
彼女亡き今、私たちは自分自身にナンシーのような視点を持つことで、「豊かな虚像とはなにか」を模索し、支持していかなければならないのかもしれない。
ナンシーは表現者であり、マーケッターではない。また、毅然(きぜん)とした態度で意見する平和主義者だったと確信する。自発的な思いや考えよりも、きっと「どんなことを言えば読者に楽しんでもらえるか」が常に頭の中を巡っていたに違いない。
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