地元
「宝島っていいな」名前で決めた移住「とにかく気楽」唯一の不満は…
「暖かい南の方に移住したい」とネットで調べた時、目にとまったのが「宝島」だった――。イギリスの海賊、キャプテンキッドが財宝を隠したという伝説があり、国内外から探検家が訪れた島。週2便のフェリーで鹿児島市内から片道12時間かかる鹿児島県トカラ列島の秘境だ。実際に移り住んだ人は「家族と過ごせる時間をたっぷりとれる。お金には変えられない価値こそ、この島の宝」。宝を探しに、記者が島へ向かった。(朝日新聞西部報道センター記者・島崎周)
屋久島と奄美大島の間、南北160キロに及んで12の島から成る鹿児島県十島村。人が住む島の中で最南端に位置するのが宝島だ。
午後11時に鹿児島市内からフェリーに乗り、翌日の午前11時半に到着。食事、シャワー、テレビ……寝たり、海を見たりと過ごしても12時間は長いと感じる。
本名(ほんみょう)一竹さん(37)と妻・祥子さん(36)は2011年に滋賀県から移住。子どもが生まれ、「暖かい南の方に行きたい」とネットで調べた際にたまたま出てきたのが「宝島」。名前が決め手だった。
「宝島っていい名前だな」
村営住宅で空いている3Kの家も見つかり、移住を即決。宝島を見に来て2カ月後には引っ越した。
ネットが天候の影響による接続障害で何日も使えなかったり、週2便のフェリーが欠航して物資が届かなかったり……。島暮らしでは全てが天候に左右される。数分に1本は電車が来るような東京で育った記者にはとても想像できない……。
でも「意外とすぐ不便さには慣れるし、もう不便には感じない」と一竹さん。朝早い通船作業にも携わるため、週2便以上船が来ると、逆に忙しくなりしんどいという。
通船作業がある日は、朝4時に起床。5時にフェリーが港に着岸する際の荷物の積み下ろしなどをして、その後いったん帰宅。子どもたちの弁当をつくって、学校などに行かせる。
9時半ごろから食品加工などの仕事をし、午後3時ごろには子どもを預けている施設に迎えに。午後5時ごろに出荷コンテナに商品を荷詰め。午後5時半には家に帰宅する。
一竹さんは「忙しくは働いていない」と話す。
移住して驚いたのが、子育てのしやすさだ。島に来てからさらに2人の子どもが生まれ、今では3、5、8歳の3人を育てる。
子どもが勝手に家の外に出てしまっても、誰か知り合いが見てくれ、子どもたちが騒いでも周りが気にならない。
幼稚園や保育所はなかったが、2015年度から村が新たに子育て支援拠点施設を新設。利用料は無料だ。おむつも月に最大5千円の助成金が村から支給されるので、ほぼお金がかからない。
宝島の2019年10月末の人口は119人。2012年から2016年まで連続で増加し、22人増えた。
119人のうち、20歳未満が7島で最多の27.7%を占める。宝島小中学校では、30年ぶりに生徒数が20人を超えたという。
子どもたちの教育環境も自然豊かな環境が生きている。
記者は島のガイドに海に案内されて驚いた。「ここで水泳の授業があるんですよ」。プールがないため、浅瀬の海で水泳の授業を受けるという。記者にとってはうらやましい限りだが、逆に「夏休みはプールに行きたい」と言う子どもたちがいるというのだから面白い。
総合的な学習の時間では、学校の近くで落花生を毎年育てて収穫したり、畜産農家を訪れ牛の世話をしたりするという。
Iターン者にとって課題となる仕事。本名さんは早い段階で軌道にのっている。
独学で始めた食品加工は、島で育つ島バナナのジャムやカレー、長命草のドレッシングなど、現在も販売されている商品が20種類に及ぶ。
特に島バナナのジャムは鹿児島県の特産品コンクールで受賞し、1万個以上売れるヒット商品に。
このほかに、バナナの繊維から織る芭蕉布(ばしょうふ)を、帯や帽子、髪留めなどに加工したり、魚をさばくなどの水産加工事業をしたりと、複数の仕事をしている。
島では若手に求められる消防団の仕事や通船作業もあり、複数の仕事をするのが普通だ。
以前の不動産業よりも収入は増えた一方で、あまり外出などでお金を使わず支出は減った。家賃も1万円ほどだ。暮らしは安定している。
「とにかく仕事を優先順位の最後においても生活できる」
複数の仕事をしながらも休みはしっかりとれている。以前は子どもが寝た後に帰宅したり、土日に休みがとれなかったり……。今は一緒に目を覚まして、ご飯を食べ、一緒に寝る生活。土日も完全にオフだ。育ち盛りの子どもと過ごせることが何よりもうれしいという。
一竹さんは「とにかく気楽にやっていけるので、みんな島に移住したらいいのにと思う」。
十島村がIターン者の定住対策に乗り出したきっかけには、無人島を生んでしまった島の歴史がある。
村の人口の最盛期は1953年の2761人。その後、集団就職や進学で若者が村を出たまま戻らないなどで年々減少。
1970年には、臥蛇島が無人島になって、人が住む島は7になった。人口減少は続き、10年には600人を割ったこともある。
村は「第2の臥蛇島をつくってはならない」と、2010年ごろから定住対策に力を入れた。
大自然と温暖な気候、ゆっくりとした時の流れなどをアピール。子どもが生まれた場合、第1子30万、第2子40万、第3子50万、第4子以降だと100万円を支給。肉牛の飼育や島ラッキョウ、島バナナの栽培といった地場の農林水産業に就いた場合、最長5年間、1家族あたり最大で最初の3年は1日1万円、残りの2年は5千円の奨励金を出す制度も始めた。
こうした手厚い支援を続けた結果、2011年には人口が増加に転じ、2016年まで連続で増加。2011年から2016年までに計102人増えた。2015年の国勢調査では、人口増加率が全国の市町村で2位にまで上り詰めた。
だが、ここ2年は伸び悩む。肥後正司村長は、移住が増えた2011年ごろに就業支援の奨励金を受け始めた人が期限切れを迎え、5年以内に自立できないことが要因にあるとみる。
島を出て行った家族もいた。
一竹さんは「思っていた生活ができなかったんだと思う。例えば東京で仕事にいきづまっても、転職などすれば、東京から必ずしも離れる必要はない。でもこんなに小さな島だと、仕事を変えるとなれば島を出ることに直結してしまう。都会なら土地を離れる必要はないような問題で出ていっている」。
村は、奨励金の支給期間延長の検討に着手。定住対策への投資として、高速インターネット整備や診療所への看護師増員なども進めている。
取材後数カ月で、新型コロナウイルスの感染が拡大。一竹さんに島の様子を聞いてみると、観光客がいなくなり、イベントも全て中止になったという。
一竹さんの売り上げも激減。一方で学校の休校時には子どもと毎日、島内で野鳥探しをしていたという。「外出しても人とめったに合わず、野鳥が多い時期にじっくりと家族で自然観察ができた。そんなところはやっぱり島のいいところです」。
肥後村長は「それなりの覚悟をもって移住しにくる。仕事や生活の悩み事に村ももっと目配りをし、地域で支えていかなければならない」と話す。
記者は会社に入って記者になってから、滋賀県、鹿児島県、福岡県と2年おきに転勤。それまでは東京で22年間過ごしてきたが、徐々に転勤生活にも慣れてきた。
「移住」というとハードルが高く聞こえるかもしれないが、「住まいを変える」「暮らしを変える」と考えれば、そんなにハードルの高いことではないのかもしれない。
そういう意味で十島村への移住は、究極の「生活の転換」だ。静かな時間がゆっくりと流れ、自然に全てをゆだねる。お金やなにかでは換算できない価値がそこにあるのだろう。
自分が移住するとすれば、特に子育てのタイミングが魅力的に思えた。今は子どもはいないが、子どもを育てるのであれば、自然があって、人とのふれあいが多い場所で育てたいという思いがある。
都会に住むと、マンションの隣の人さえ知らないことが多い。子どもが騒いでうるさがられ、急な仕事の都合で子どもの面倒を見られなくなったりしても、周りに助けてくれる人、許してくれる人がいれば、こんなに住みやすい環境はない。
また仕事面では、一つの仕事だけでなく、通船作業や消防団の業務など、ひとりひとりが担う仕事は複数にまたがる。これは飽きやすい性格にとってありがたい。副業をいくつもしている感覚で、楽しそうだ。
一方で移住するとなれば、クリアしたい課題もある。
まずはインターネットの環境。記事を書く仕事をしていて、ネットさえあればどこでも仕事ができるが、通信状態が悪いと支障が出る。
住民に取材していると、ネットが使えなくなることは頻繁にあるといい、村は高速インターネットの整備をまさに進めているというが、これは必須条件だと感じた。逆に言えば、ネットの環境が充実すれば、より仕事の幅も広がるのではないか。
島に移住した何人かに取材して驚いたのは、「島暮らしは意外と不便ではない」と口をそろえる点だ。
確かに自分自身も転勤を繰り返し、東京と比べれば「田舎」と感じる環境に身をおいてきたが、何となく順応し、慣れてきた。
160キロに及ぶ村は「日本最後の秘境」と称される。秘境もとかく「住めば都」なのかもしれない。
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