連載
#56 #となりの外国人
来日30年、過酷な生活も「文化大革命に比べれば…」女性が語る半生
外国人として日本にやってきて、日本人と一緒に暮らしている人たちは年々増えています。1980年代、「文化大革命」の影響が色濃く残る中国で必死の思いで大学を卒業し来日。就職、結婚、離婚を経て娘と一緒に暮らしている一人の中国人女性がいます。新型コロナウイルスでの不安に耐えながら「どんなに困難があっても、中国へ戻りたいと思ったことは一度もありませんでした」と語る女性の半生を聞きました。
姚南(ヤオ・ナエン)さんは現在、都内の私立大学で、中国語の非常勤講師をつとめています。ヤオさんは中国吉林省の出身で、江西省で育ちました。
江西省内の「井崗山」は中国共産党が創設した最初の革命根拠地です。省都である南昌市は解放軍の誕生の地でもあり、「中国革命のゆりかご」とも言われています。
そんなヤオさんの家も、歴史によって翻弄されることになりました。文化大革命(1966-1976)という混乱の時期に、両親が国の政策で「下放」され、農村部で生活することになったのです。13歳だったヤオさんは一人で南昌市に残り、その後、南昌郊外にある「共産主義労働大学」の中学校部に入学しました。そこは、毛沢東主席も絶賛した「半分労働、半分学習」をモットーに掲げる学校でした。
「お昼はほぼ農作労働で、勉強ができるのは夜の時間しかありませんでした」
「3年間の自給自足の生活は、想像を絶するほどたいへんでしたが、私の人生の基礎を築きました。将来機会があれば、回想録を書きたいと考えています」
数学・物理・化学の勉強は都市部と比べると遅れましたが、ヤオさんの国語と政治で優秀な成績をおさめます。ただし、大学への道は平坦なものではありませんでした。
17歳の時、都市部の高校に戻り、2年間、高校の勉強を経て、大学受験の回復を期待していたヤオさんですが、再び、国の政策によって「知識青年」として農村部に行かなければなりませんでした。「上山下郷」と呼ばれる運動は、肉体労働を通じて農民たちと親しくなり、身につけた知識を農村に伝えるという、中国共産党の政策によるものでした。
10年に及ぶ文化大革命が終わった後、1977年、ようやく「大学受験」が許されました。10年間大学受験を受けられなかった人たちが、1977年の卒業生と一緒に大学受験に臨みました。
3カ月の準備で大学の合格ラインに達したヤオさんでしたが、当時、地元の名門・江西大学への希望者は非常に多く、ヤオさんが「上山下郷」で行った県では、受験者だけでも1500人もいたそうです。
その中で、合格ラインに達したのはたったの8人。さらに「政治審査」(身辺調査)などを経て、最終的に合格したのは3人で、そのなかの1人がヤオさんでした。
それでも、すんなりと入学できたわけではありませんでいした。
ヤオさんの父親の出身階級は「黒五類」(労働者階級の敵として分類された5種類の階層)に属する「富農」で、それを理由にヤオさんの大学入学を阻害しようとする人が現れたそうです。当時、江西大学の幹部に両親の知り合いがいたことから、ヤオさんは大学に入学することができました。
入学を巡る混乱は、入学後も、ヤオさんを悩ませることになります。当時の社会では成績以外に、人間関係(親のコネなど)の影響を100%否定できなかったからです。
ヤオさんは大学を卒業したのは1982年の春でした。
専攻は中国文学・漢語言語学でしたが、ヤオさんの就職先は、母校の江西大学「組織部」という人事関連の部署でした。
「当時、中国の大学生は、卒業すると国家によって就職先が決められていました。仕事を自由に選べることができませんでした。」
その時、ヤオさんには連絡を取り合っていた幼なじみの日本人男性がいました。
母親は日本人で、父親は台湾出身という男性は7歳から小学校卒業するまでの6年間をヤオさんと同じ地域で生活し、家族ぐるみの付き合いをしていました。日本に帰国した男性とは文化大革命が終わってから連絡が取れて、文通が始まりました。
ヤオさんの状況を知った男性は、日本への留学に誘いました。
マルクス・共産主義を勉強し、資本主義社会の日本に好感を持っていなかったヤオさんでしたが、やさしくて優秀な男性と、日本のイメージとのギャップの理由を知りたく、留学を決意しました。
1980年代から改革開放が始まった中国では、個人が外国へ出張したり、留学したりする機会が徐々に増えていました。一方で、今とは比べものにならない「閉鎖的」な面も残っていて、外国に行く許可をもらうには、丸2年の就職実績が必要というルールがありました。1982年に就職したヤオさんは、2年後の1984年に、やっと日本へ来ることができました。
ヤオさんにとって、日本は丸ごと未知の世界で、日本語も「ありがとう」「すみません」しかできませんでした。ヤオさんは当時中国の政府機関や事業部門にあった「停薪留職」(給料はもらわないが、職を保つ)制度を利用し、早稲田大学の語学教育研究所に入学。語学の勉強からスタートしました。
当時の中国で、大学卒業した公務員の平均給料は45元で、7000円程度にすぎません。日本に来た時のヤオさんは就職して貯めた2年間の貯金をぜんぶお土産に使いました。
ヤオさんが日本に来た時の飛行機代と、語学勉強の学費、最初の生活費はぜんぶ男性が支援しました。そして来日して間もないヤオさんもアルバイトをはじめした。
お金もなく、言葉も通じなく、「すべてが新しいスタート地点に立った」とヤオさんは振り返ります。
ヤオさんは来日後、男性の家に下宿しました。
当時の男性は博士課程を卒業したばかりで、金銭的に裕福ではありませんでしたが、男性がヤオさんを全力で支援しました。同じ屋根の下で暮らしているうちに、男性に好感を抱き、2人は交際を始めます。
しかし、そのころ、すでに両親を失っていた男性にとって、唯一の肉親である妹が、2人の交際を猛反対していました。2人は妹の反対を押し切って、結婚しました。
結婚を機に、ヤオさんは大学院への進学を断念し、日本語を磨くためのアルバイトに力を注ぎます。大学の専攻だった「中国文学・漢語言語学」を活かして、中国語を教える教壇に立ちました。
派遣社員、通訳などの仕事を経て、落ち着いたのは私立大学での非常勤講師でした。修士号を取得していなかったため、常勤講師にはなれませんでしたが、ヤオさんは中国語を教える仕事が好きでした。
経験を積むに連れ、徐々に中国語を教えるスタイルが確立していきました。1997年に『身につく中国語』(駿河台出版社)という教科書も出版し、仕事ぶりは学校と学生からも高い評価をもらいました。
しかし、プライベートな生活は幸せとは言えませんでした。結婚後、努力しましたが、夫の妹との関係は修復できず、家庭生活がギクシャクし、別居を経て、離婚する決断をしました。
ヤオさんは30年以上、中国語教師として授業を担当してきました。
「今では、中国語の仕事は生活のためではなく、日中友好の架け橋にしたいと思っています。中国文化を伝え、日中友好に貢献することは私の天職と責任になっています。あと数年間で引退する私ですが、これからの時間とエネルギーを使い、中国語の勉強により役立つ中国語文法の本を編集しようと思っています」
最近はコロナの影響もあり、授業もオンラインでやるようになり、Zoomなど新しいアプリの使用など試行錯誤をしています。
4月末、日本で50代の1人暮らしの男性が新型コロナウイルスによって、自宅で急死したというニュースを聞いて、ヤオさんはショックを受けました。
ヤオさん自身も同じ頃、体調を崩し、息苦しさを感じていました。日本でのPCR検査の条件が厳しい状況のなかで、ヤオさんは体温計をインターネットで購入して、毎日体温をチェックしました。そして中国のSNSから転送された新型コロナの判定方法や効果がある漢方なども常に閲覧し、呼吸の異常がないか自分の健康状態をチェックし、漢方も試しました。
食事の栄養バランスには特に気を遣いました。症状が徐々に消え、元気を取り戻したヤオさん。「日本国籍に帰化していますし、日本国民と一緒に政府に協力し、人の迷惑にならず、クラスターにもならない努力をします。漢方で体調を整えながら、考えすぎないことも大事だと学びました」
人生の半分以上を日本で送り、そして日本での境遇も決して順風満帆とは言えなかったヤオさん。
ヤオさんは文革後に受かった初代の大学生で、超高学歴だったため、もし中国にいたのなら、エリート世代の1人として出世していたかもしれません。
ヤオさんは中国へ帰国することは考えなかったでしょうか。
「一度も考えませんでした」
「中国での人生はとても紆余曲折なものでした。これは時代がもたらした不遇と言えるかもしれません」
そしてヤオさんは日本への思いを語りました。
「日本に来てよかったと思います。来日した最初の頃はたしかに大変なことも多かったですが、中国での7年間の農村生活により、強靱な精神力を鍛え上げたので、そんなに苦になりませんでした」
当時は、今以上に、人間関係やコネが重視されていた中国。そういうものが大の苦手だというヤオさんにとって、自分が努力しても、正しく評価してもらえないことは大きな悩みでした。
「日本でより広い空間と自由を手に入れたと思います」
「日本では社会福祉が充実し、社会の平等度が高く、努力すれば社会に評価されると思います。 またみんなが謙虚で、慎ましい。他人に迷惑をかけないという民族性が大好きです。自分に合うと感じています」
「才能がなくても勤勉でさえあれば、自分なりのいい暮らしを手に入れられる」、とヤオさんが最後に力強く話しました。
ヤオさんと出会ったのは、コロナがきっかけでした。
マスクが手元になくなり、入手もできなくなった記者の状況を知人を通して知ったヤオさんが、持っていたマスクを分けてくれました。
記者は、ヤオさんと同じく中国で生まれ中国の大学を卒業後、日本に留学。今は、日本で働いています。一方で、文化大革命を経験したヤオさんの半生は「個人の記録」でありながら「時代の記録」だという思いをあらたにしました。
日本でも、子どもの家庭環境が大学進学に影響を与えているという指摘があります。ヤオさんのような壮絶な体験をした人が「となり」にいる日本。ヤオさんのような存在は、個人の努力が報われることの大切さに気づかせてくれます。
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