お金と仕事
現役時代の収入超えた、元プロスノーボーダーが歩んだ「合理的思考」
アスリート現役時代、収入が高ければ高いほど、引退後の生活にギャップに苦しみます。19歳からプロスノーボーダーとして活躍し、30歳で引退した田中総一郎さん(41)もその1人でした。現役時代、ケガをしてもスポンサーをひきとめられた「作戦」。会社を設立して8年、すでに現役時代の年収を超えています。「稼げる人がプロ」と話す田中さんが切り開いたアスリートのセカンドキャリアを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
田中総一郎(たなか・そういちろう)
元々体は強くなかったのですが、スポーツは好きで、小学校でサッカーを始めました。でもなかなかレギュラーになれませんでした。試合に出たかったので、他のスポーツへの転換を考えました。
中学校では、部員数が少ないバレーボール部に入部。レギュラーになれる確率が高いと思ったのですが、身長164センチで小柄だったのもあり、ここでも試合に出られませんでした。
もんもんとして生活を過ごす中、高校の時にスノーボードブームが到来。スノーボードに興味を持ちました。体格や経験値に影響しないスポーツだと思い、「スノーボードでプロになる」と直感で決めました。スケードボードの経験もあったので、ハーフパイプで勝負をしようと思ったんです。
スノーボードを極めるのなら、雪があるところがいいと思い、東京から北海道の大学に進学しました。転機になったのは4カ月休学し、本場アメリカ・メーン州へスノーボードの練習をしに行ったことでした。
スキー場のふもとの宿泊施設に寝泊まりし、「ドアを開けたらすぐリフト」という環境で毎日練習に励みました。プロに近い人たちの近くで練習することで、メキメキと上達しました。
サッカーやバレーボールと違い、スノーボードは小柄な方が有利なスポーツです。わずか数カ月でしたが格段に実力を上げて帰国しました。そのスキルを買われ、19歳でバートンとの契約に至りました。
日本では、プロスノーボーダーになるには資格を取る必要があります。正直なところ、国内では、プロになっても活躍できない選手は多くいるのが現実です。一方アメリカでは、「稼ぐ人がプロ」。うまくなったら稼げるようになる、という考え方ではないんですね。
私はアメリカ式の思考だったので、常に「どうやって稼ぐか」を考えていました。スノーボードブランドの中でも、どの板が売れていて、どの会社がどのメディアとつながっているかなどを徹底的に調べ、企業に自分を売り込みました。
スポンサーがつくと、大会で勝ちやすくなります。例えば大会前に前泊してコンディションを整え、受付などの手続きはスタッフに任せられるため、試合のみに集中できます。
一方、スポンサー無しの場合は、仕事終わりに夜な夜な車を走らせ、車内で仮眠してから出場‥‥ということも、日常茶飯事です。
私は、当時はスノーボードの実力はそこそこでしたが、お金と時間はありました。その結果、大会で勝ち続けることができました。要は「勝ち方」を知っていたんです。
この「稼ぐ人がプロ」という考え方と実行力は、引退してビジネスをする上でも軸になっています。
アマチュア時代からスポンサーはついていましたが、資格を取ることでより説得力が増すと思ったので、21歳でプロになりました。
順風満帆だったプロ2年目の23歳の時、試練に見舞われます。練習とプロモーションビデオ撮影のために訪れたオーストリアで、ひざの前十字靭帯(じんたい)を断絶してしまったんです。
ジャンプの発射台の雪が柔らかくコントロールを失ってしまい、平らな地面に落ちました。その晩、ホテルで泣きましたね。「せっかくここまで来たのに……」という悔しい気持ちでいっぱいでした。
そこから1年間は滑ることができなくなりました。大会も、本調子になるまで勝てないとわかっていたので、出ませんでした。中途半端に復帰して、大会で実績を残せなくなるのだったら、違う方法で生き残ろうと思ったんです。
プロになると「大会か撮影か」の生活になります。大会では結果がすべて。契約していたバートンは外資系というのもあり、成績が悪いと契約をすぐに切られるのが目に見えていました。そこで考えたのが「撮影」の方でのお金を生み出す方法です。
考えた結果、1年間カナダへ行き、雑誌とDVD用の撮影に力を入れることにしたんです。専属のカメラマンに1シーズン密着して撮影してもらい、その写真を出版社に売りに行きました。
企画が当たり、雑誌30ページの企画をまるまる任せてもらうこともあり、年間で70ページ取れたことも。その他、カバンブランドプロデュースも手掛けたり、他のスノーボードブランドメーカーと契約を結んだりして、7年間現役を続けました。
その結果、収入は右肩上がりに。スノーボードの「上手さ」ではなく、スポンサーの商品が売れる「インフルエンス力」を伸ばした結果でした。
引退は30歳の時です。契約金の高いピーク時にやめようと思いました。セカンドキャリアを考えた時、スノーボード界には残らないと決めたのは、今後マーケットが縮小すると思ったからです。ビジネスをする上で大事なのは、市場の行き先を見極めることだと思っています。
一般企業へ就職を考えましたが、「30歳社会人未経験」だと給料が低くなってしまうのが現実。当時はそれが受け入れられませんでした。でも今振り返ると、ビジネスマナーなど社会人としての基礎を身につける「修行」だと捉えて就職するのもアリだったと感じています。
何を軸にして仕事を選ぶかを考えた時、「引退する仕事はもう嫌だな」と思ったんです。そうして、行き着いた答えが「経営者になろう」でした。そこで、経営者の塾などに通い、考え方や利益の生み方を学びました。
そして、大学でデザインの勉強をしていたのを武器に、ブログのカスタマイズやコンサルを始めました。当時はフリーランスだったのですが、気をつけていたのは「時間単価と利益率」です。
一見、単価の高い依頼だったとしても、打ち合わせや移動時間、ウェブ制作後のフォロー工数も含めて割に合う仕事かを考えていました。また、お客さんからの質問に対しての答えを全て動画作成しました。一つひとつ動画を撮りためていくことで、次回同じ質問があった際はFAQへの誘導が可能になります。そのように時間を捻出していき、生産性を上げていきました。
やりがいや好きなことを求める前に、一定水準稼ぐことが必要だと思っています。その順番を間違えると食べていけなくなるので。そういった意味では、私は合理的な人間だと思います。
引退後に最も苦しいのは、生活スタイルが変わることです。特に、収入が高ければ高い人ほど、そのギャップに苦しむと思います。
私は「稼ぐ人がプロ」の精神で、少しずつ会社を大きくしていきました。今年で登記してから8年目になりますが、現役時代の収入はすでに超しています。これからも、もっと会社を大きくしていくつもりです。
現役時代も経営者となった今も、大事にしているのは、「誰と交渉するか」です。どんなに良いアイデアも、話す人を間違えると前に進みません。交渉の際、できるだけ権限のある人に話すようにしています。
その際、注意しているのが「上下関係を作らないようにする」こと。最初からフラットな良い関係を築くために、1年以上かけて信頼関係を作ることもいとわないです。
若手アスリートの方へのメッセージは、現役時代から引退後も設計しておいた方がいいということ。今はインターネットなどでいくらでも情報が得られる時代です。例えばサッカーの本田圭佑選手のように、実力だけではなく、ビジネスマインドも持ちながら現役を続けることが、これからのスポーツ選手の潮流になるのではと思っています。
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