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連載

#53 #となりの外国人

来日12年、共働きで知った「日本のママはすごい」幸せのため退職

「働きながら子育て。私もきっとできるんじゃないかって思っていた」

マリアさん(左から2人目)と家族。住んでいる町には、ひまわり畑がある。ひまわりはインドネシア語で「太陽の花」。毎年、家族で見に行く=マリアさん提供
マリアさん(左から2人目)と家族。住んでいる町には、ひまわり畑がある。ひまわりはインドネシア語で「太陽の花」。毎年、家族で見に行く=マリアさん提供

目次

日本での「共働き」や「子育て」。当たり前だと思っていた風景が、日本に暮らす外国人を通すと違ったものに見えてきます。家族や近所の人と助け合うことが普通だった文化から、日本にやってきたインドネシア出身のマリアさん。日本での子育ては、看護師としてのキャリアを諦めさせるほどの過酷さでした。それでも「日本に来て良かった」というマリアさんの、今の幸せについて聞きました。

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マリアさんが、つらい時、楽しい時、そばにあったインドネシアと日本の歌を聞きました。「家族になろうよ」には特別な思い出があります。ぜひ、記事を読みながら聞いてみてください。
 

「怒らない母」の難しさ

栃木県で3人の子どもを育てているインドネシア出身のマリア・フランシスカさん(36歳)は、新型コロナウイルスで家にこもっていた期間、思い知ったことがあると言います。

休校中、小学校2年生になった長男のガブリエルくん(7歳)は2週間に1度、学校から宿題の山を持って帰ってきました。

マリアさんは、遊びたい盛りの妹クインシちゃん(5歳)と、弟ファビアンくん(3歳)にYouTubeを見せて気をそらせながら、宿題に付き合います。

「次の提出に間に合う?」と、ついイライラ。算数の文章問題が苦手なガブリエルくんに、「さっき『人』だったところが、『動物』に変わっただけでしょ!」と怒鳴ってしまいます。マリアさん自身、約10年前、看護師の国家試験で頭にたたき込んでいた医療用語とは違う、「宿題」に使われる日本語に手を焼いていました。

夜、「悪いママでごめんね」と、ガブリエルくんに謝って、こう思います。「母みたいに我慢強くて怒らない、そんな親になろうと思っていたのになぁ」

マリアさんが看護師を辞めて専業主婦になってから、4年が経ちました。

息子に喘息(ぜんそく)があるため、緊急事態宣言中はずっと子どもと家にこもっていた。家の近くで桜が咲いた時、1カ月ぶりに外に出た。マスクは撮影の時だけ外した
息子に喘息(ぜんそく)があるため、緊急事態宣言中はずっと子どもと家にこもっていた。家の近くで桜が咲いた時、1カ月ぶりに外に出た。マスクは撮影の時だけ外した

2人のおばあちゃんの死

マリアさんが日本に来たのは2008年です。

高齢化にともない看護や介護のニーズは増える一方で、日本の看護・介護業界では離職者も後を絶たず、人手不足の解消は喫緊の課題でした。日本政府が外国から呼び寄せた208人の看護・介護人材に、マリアさんがいました。

マリアさんは千葉県内の病院で、看護助手として働きながら、日本の国家試験に向けた猛勉強に励みました。日本語がゼロの状態から、3年目で、難関と言われる看護師の国家試験に合格しました。

配属されたのは内科。インドネシアに比べて、患者の年齢層は高く、寝たきりの人が多くいました。「胃瘻(ろう)」は日本で知りました。

患者の中で、忘れられないおばあちゃんがいました。会う度に「マリアちゃん、がんばってね」と声をかけてくれました。最期を看取ったのはマリアさんでした。

家族が迎えにくるまで、おばあちゃんに最後のケアをしました。体の治療痕をきれいにして、拭き清め、丁寧に化粧を施しました。「ごめんなさい、私にもっと力があれば……」

マリアさんは、インドネシアで亡くした自分の祖母と、そのおばあちゃんを重ねていました。

マリアさんがジャカルタの病院で看護師として働いていた時、母から「おばあちゃんの呼吸が変なの」と電話を受けました。「病院に搬送して」と伝えましたが、家にはそのお金がありませんでした。

家で祖母が亡くなり、実家に向かうバスの中で、マリアさん自分の無力さに涙が止まりませんでした。「もし家族が病気になったら、今度は満足な医療を受けさせたい」

祖母のマチルダさん(左)。マリアさん(右)の看護学校の卒業式には、参列してお祝いした。卒業式の後に、家の前で撮影した
祖母のマチルダさん(左)。マリアさん(右)の看護学校の卒業式には、参列してお祝いした。卒業式の後に、家の前で撮影した

助け合って生きる

マリアさんは、インドネシアのジャカルタ郊外で生まれました。6人兄弟の上から3番目。

2人の姉は養子でした。

マリアさんの母は、自分の母親(マリアさんの祖母)が未亡人になったことをきっかけに、まだ幼かった妹を自分の養子として育てることを決めました。近所の人が亡くなったときも、身寄りのなかった子どもを引き取りました。

「1970年代のインドネシアは、まだ経済的に困窮していました。少しでも余裕がある人が、身のまわりの困っている人を助ける時代だったんです」

マリアさんの母も決して裕福ではありませんでした。小学校は3年生で中退。お菓子を売り歩き、家計を支えました。工場勤務の夫と結婚した後も、マッサージ師として働きながら、夜中は縫い物の内職。マリアさんたち子どもが朝起きると、机には朝食だけが用意されていました。

そんな子ども時代で、特別な思い出に残っているのはクリスマスです。「その日だけは、コカコーラを買えるんです。うれしくて」とマリアさんは振り返りました。

2歳のマリアさん。誕生日は、誕生日が近いいとこの家で、合同で祝ってもらった
2歳のマリアさん。誕生日は、誕生日が近いいとこの家で、合同で祝ってもらった

目標、「弟と妹を大学に」

2人の姉は「私たちは高校までで良いから」と進学を辞退しました。マリアさんは兄弟の中で、初めて高等教育を受けることになりました。

「すぐに仕事が見つかるだろう」と、マリアさんは家族の期待を背負って看護の専門学校に進みました。

看護師になったマリアさんは、弟と妹を大学に入れることを目標に働きました。

外科、内科、ICUで働きました。でも、給料は170万ルピア(約1万3000円)ほど。実家に2割を送金すると、貯金もできませんでした。

そんな時、日本で看護師を募集していると知りました。病院は引き留めましたが、7人いた同期のうち3人が、日本に来ることを選びました。

10年ぐらい日本で働いて、お金を貯めて、インドネシアに家を建てて……そんな予定だったと言います。

インドネシアの病院で働いていた時のマリアさん(左)ICUの看護師仲間、先輩たち。今もフェイスブックで連絡を取り合っている
インドネシアの病院で働いていた時のマリアさん(左)ICUの看護師仲間、先輩たち。今もフェイスブックで連絡を取り合っている

結婚、そして共働きへ

国家試験に合格した年、同じEPAで来日したインドネシア人看護師、ジャヒサル・ビンジョリさんと結婚しました。来日する飛行機の中で知り合い、つらい時も励まし合ってきました。

結婚を知ったビンジョリさんの病院の人が、二人のための結婚パーティーを開いてくれました。
会場も、食べ物も、衣装として着物まで用意してくれました。「想像もしていなかったんです。嬉しかった。本当の家族のように思ってくれたんです」

その時、会場で流れたのが福山雅治さんの「家族になろうよ」でした。「その時に知って、今でもずっと大好きな曲です」

「着物を初めて着ました。キラキラしていて、きれいだった。何枚も着るので驚きました」
「着物を初めて着ました。キラキラしていて、きれいだった。何枚も着るので驚きました」

子どもはたくさんほしい、早く産めば、その分、早く仕事に復帰できる、と思っていました。結婚して半年で、第一子を妊娠しました。

インドネシアでは、子育ては親や兄弟、近所の人と助け合ってするものでした。共働き世帯は、お手伝いさんを雇うのも普通でした。

日本ではそれが難しいことを感じ、マリアさんは妊娠中に入管へ相談に行きました。「親を呼び寄せて一緒に暮らしたいのですが」。でも、マリアさんたちが国家試験に合格してやっと得た在留資格でも、仕事はいつまででもできる一方で、親や兄弟を呼び寄せることは認めていませんでした。

マリアさんは楽観的でした。「日本のママたちは、働きながら子育てをしている。私もきっとできるんじゃないかって」

仕事を辞める決断

出産から1年で、職場復帰しました。家の近くの保育園についてはあまり分からなかったので、職場の託児所に長男を預けました。

職場までは自宅から電車で片道45分。夕方、帰宅するころには、疲れた長男が電車内でぐずりました。乗客にはあやしてくれる人もいましたが、迷惑な顔をされることもありました。泣きたい気持ちで、別の車両にうつりました。

通勤の負担は、2人目の妊娠でさらに重くなりました。体調を崩しがちな長男。泣き叫ぶ子を抱えながら、欠勤の電話をすることも増えました。「ごめんなさい。今日も……」

職場では、子育てを応援してくれる上司がいる一方、「なんでマリアさんだけ常勤なの。子どもを産んだら、みんなパートタイムにするのに」と言う同僚もいました。

「ストレスは想像を絶するものでした。でも日本のママは仕事も子育てもやれている。私が甘えているだけなのかなと思っていました」

3人目を妊娠したのをきっかけに、夫の職場が近い栃木県に引っ越しました。自分のペースで働くことができる透析施設に転職しました。でも妊娠7カ月目に、不正出血がおき、マリアさんは、看護師を辞める決断をしました。

末っ子のファビアンくんを里帰り出産した後、母・アメリアさんが日本まで送ってくれた。観光ビザのため短期滞在で生活を手伝ってくれた
末っ子のファビアンくんを里帰り出産した後、母・アメリアさんが日本まで送ってくれた。観光ビザのため短期滞在で生活を手伝ってくれた

「それでも日本に来てよかった」

マリアさんが看護師を辞めた頃、同じようにインドネシアから来日して、国家試験に合格した人たちが、相次いで、帰国しました。結婚や子育て、親の介護などが理由の人もいました。

日本が呼び寄せた外国人たちも、人生のステージが進むにつれて、仕事を諦めた多くの日本人女性たちと同じような選択をしている――。私はマリアさんに「もし、インドネシアにいたら、どうなっていたと思いますか」と尋ねました。

マリアさんの同期は、ICUで技術を積み、今も医療の最前線で働いているそうです。

マリアさんは「でも私は日本に来て、良いことの方が多かったから、やっぱり日本に来て良かったです」と話しました。

「日本の子育ては、乳幼児健診や、児童手当、日本語教室など、公的なサービスが整っています。健康保険を含む医療制度もあり、病気になったとき子どもに安心して医療を受けさせることができます」


子育てするのに安心。「でも、寂しい」とマリアさんは言いました。

近所にママ友はいても、子どもを預け合ったり、夫の愚痴を言い合ったり、そんな距離感になかなかなれません。仕事を離れると、世界は家庭だけ。教会に通ったり、インドネシアの友人とチャットしたりして息抜きしていました。

4月はファビアンくんの3歳の誕生日。プラレールでケーキのまわりを飾った。子どもの誕生日には大きなケーキでお祝いしている
4月はファビアンくんの3歳の誕生日。プラレールでケーキのまわりを飾った。子どもの誕生日には大きなケーキでお祝いしている

弟と妹も日本へ

「弟と妹を大学に入れる」ことを目標にしていたマリアさん。頑張りが実り、弟は大学に進み、ITを学びました。でも、良い仕事は見つかりませんでした。日本が介護の留学生を募集していると知り、弟は4年前に来日し、今は千葉県の病院で介護福祉士として働いています。

妹も昨年、介護の留学生として来日しました。午前中は学校に行き、午後はパートタイムとして介護施設で働いています。

マリアさんは2人に、来日前、「日本に来るメリット、デメリット」を伝えて考えさせたと言います。
「日本の方が、お金は貯まるだろうけど、インドネシアより孤独になるかもしれない」
「仕事は厳しい。でも一生懸命やったら、きっと認めてもらえる」

来日して半年で、妹はマリアさんに「利用者から『今日は仕事は何時まで? 夜までいてくれる?』と尋ねてもらえた」話したと言います。「甘えん坊が、がんばったんだ」とマリアさんは誇らしく思いました。

介護の留学で妹のステファニさん(左から2人目)が来日したとき、母・アメリアさんと、父・ヨハネスさんも送ってきた
介護の留学で妹のステファニさん(左から2人目)が来日したとき、母・アメリアさんと、父・ヨハネスさんも送ってきた

幸せの「パイナップルクッキー」

「自分のキャリアよりも、今は子どもの幸せが大切なんです」。そう話すマリアさんは、「3人の子どもを大学に入れること」が今の目標だと言います。

日本で10年働けば、インドネシアで余裕を持って暮らせると踏んでいましたが、この間、インドネシアも目覚ましい経済成長を遂げて、「ショッピングモールで買い物すれば日本よりも高いくらい」に物価が上がりました。

良い教育を受けるためにはお金がかかるというインドネシア。日本は日本で「塾に入れないとついていけない?」と心配が尽きません。

「どこで子どもを育てるのが良いんでしょうね」。そう聞いた私に、マリアさんは「きっとどこでも大変なんです。のんびり育てるとしたらインドネシアかもしれないけど」と笑いました。

最近、一番幸せだったことは「パイナップルクッキー」を日本で作ることができたことでした。

クリスマスのときに決まって、母が作ったクッキー。子どもたちも手伝いました。近所の人たちも集まって、賑やかに過ごした日、みんなの中心にあった思い出の味です。

「賑やかさには欠けるけど、夫と子どもたちが『おいしい』と食べてくれたんです。それが今の幸せの形です」

マリアさんが初めて日本で作った「パイナップルクッキー」。中には、1時間以上煮詰めた手作りのパイナップルジャムが入っている。「少し子どもから手が離れたら、また仕事をしたいです」と話した
マリアさんが初めて日本で作った「パイナップルクッキー」。中には、1時間以上煮詰めた手作りのパイナップルジャムが入っている。「少し子どもから手が離れたら、また仕事をしたいです」と話した
 

 日本で働き、学ぶ「外国人」は増えています。でも、その暮らしぶりや本音はなかなか見えません。近くにいるのに、よくわからない。そんな思いに応えたくて、この企画は始まりました。あなたの「#となりの外国人」のこと、教えて下さい。

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