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お金と仕事

車いすから考える「外出自粛」自由と不自由のはざまで生まれる優しさ

その「少しだけ動く足の指」で読んでほしい本

自由とは=写真はイメージです
自由とは=写真はイメージです 出典: pixta

目次

心身に障害を抱えた人が働く職場で働き、自身も車いすユーザーである篭田雪江さんは、身の回りの出来事をネットで発信してきました。日本の神話や昔話に出てくる女性の行動を分析した、はらだ有彩さんの『日本のヤバい女の子』を読み思い出したのが、職場から去っていった一人の女性のことでした。本の中で自由な生き方を見せてくれる「ヤバい女の子」と、不自由さを強いられる障害者。コロナウイルスによって、誰もが不自由な生活を強いられる今、篭田さんに「自由であること」についてつづってもらいました。

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彼女は、両腕がほとんど動かせなかった

とても大事な友人のひとりに、ある女の子がいる。

職場の昼休み、食堂で私と席が近くなることが多かった。彼女はいつも穏やかで、まわりにいる人たちの話を聞いては優しいほほ笑みを浮かべるのが常だった。

職場では経理として働いていた。仕事はとても適格で間違いがなく、なにより意欲的だ、と同僚に聞いたことがある。

彼女と私は妙な共通点がいくつかあった。

大相撲が好きで、ひいきの力士が松鳳山であることや、互いに虫が大嫌いで「てんとう虫やかぶと虫が飛んだあと、殻から中の羽を中途半端に出してるのが気持ち悪い」「小さい頃、チョウの粉を吸ったら死ぬと思っていた」ことなど。そんなくだらない話で盛り上がった。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典:pixta

そんな彼女は、両腕がほとんど動かせなかった。

小さい頃の事故で運動機能をほぼ失ってしまったらしい。だから彼女は足で腕や手の機能を補っていた。

パソコンも足の指で操作し、食事の時も足をテーブルの上に乗せ、足の指の間に箸やスプーンをはさんで動かし、ご飯を口に運んでいた。

車だって足で動かせる装置を使って運転し、ひとりで通勤していた。

こうして書くととても特別ですごいことに感じるけど、実際目の当たりにすると本当に自然で、まったく違和感がなかった。彼女にとっては当たり前の、ごく自然な行為だったからだろう。

〈身体障害と運転免許〉1960年に施行された道路交通法によって、身体障害者も運転免許の取得が可能になった。腕や足が動かせなくても、専用の装置のついた車であれば試験を受けた上で運転をすることができる。

でも、彼女は三年前、職場を退職してしまった。

原因はひざ関節の悪化だった。手術を受けたが術後が悪く、それまで当たり前だった足でのパソコン操作や箸の使用もままならなくなった。

それまではひとりで歩けていたがそれもできなくなり、まわりの人の力を借りねばトイレにも行けなくなった。

それでもなんとか頑張っていたけど、彼女自身も周囲にも限界がきて、退職せざるを得なかった。今は自宅で訪問リハビリや入浴のサービスを受けながら、療養を続けている。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典:pixta

自由なのに、現実はそうじゃない

はらだ有彩さんの『日本のヤバい女の子』を先日、病院の待合室で読んだ。

待ち時間が長かったことと内容の素晴らしさで一気に読み終えた。はらださんの深い見識と考察、テンポのよい文章、鮮やかで哀し気で生き生きとしたイラスト、そしてなにより無限とも思える想像力で、長年の虚構や改ざん、あるいは男どもの都合いい価値観を押し付けられ続けた昔話の女の子たちが次々と解き放たれ、自由になっていくのがうれしく、楽しく、痛快で、そしてほんの少し切なく、読んでいる間ずっと鼻をぐずらせていた。

はらだ有彩『日本のヤバい女の子』(柏書房)

でも同時に、ずっと胸が重くなってもいた。悲しくもあった。ページをめくる間、ずっと彼女のことを思い出していたから。

はらださんの愛情で、女の子たちは解き放たれた。自由になった。では彼女は?
腕と足の動きをほとんど失い、仕事を失い、家で過ごさざるをえなくなった彼女は?

帯には「わたしたち、積年の呪いを解き合って、どんどん自由になっていこうね」との松田青子さんのコメントがある。その「わたしたち」には、もちろん彼女も含まれている。含まれていなければうそだ。

そう、彼女は自由だ。言い忘れていたけど彼女は二十代の、今に生きる若い女の子だ。

仕事をばりばりこなし、友達と語らい、時にはけんかし、恋だってできる。できなければいけない。

でも彼女自身と彼女を取り巻く現実が、厳然としてそれを拒んでいる。自由なのに、解き放たれているのに、現実はそうじゃない。

〈障害者の雇用〉厚労省の調べでは、2019年に民間企業に雇用されている障害者の数は約56万608人いる。公的機関に雇用されている障害者は、国が7577人、都道府県が9033人、市町村が2万8978人、教育委員会が1万3477人。独立行政法人などは1万1612人いる。法定雇用率達成企業の割合は48.0%となっている。(参考リンク:令和元年 障害者雇用状況の集計結果

写真はイメージです
写真はイメージです 出典:pixta

気が向いた時、したいことをしなければ

読み終えた時、即座に思った。この本を彼女に教えてあげたい。読んでほしい、と。

でもすぐためらった自分がいた。もしこの本を彼女に勧めたらどう思うだろう。もしかしたらこう言うかもしれない。

「どちらにしろいいですよね、この子たちにはみんな動く手と足があるから……」

差し出した本を今はかろうじて動くだけになってしまった足で除けられるかもしれない。最悪、恨まれるかもしれない。

でもそうなっても私はなにも言えない。なぜならそれはとりもなおさず、私もずっと思っていたことだったから。この子たちには自由に動く脚があるんだよな、と。

私も五歳の時から下半身不随の身体障害を負い、ずっと車いす生活を送っている。だからそんな言葉や行動を彼女から投げかけられても、私はなにも言えないしできない。その気持ちは私もおなじだから。

「もし出かけたいのだったら、ヘルパーさんでもなんでも頼めばいいんじゃない?」などというひとがいたら、私はそうじゃない、と強く首を横に振ってしまうだろう。

解き放たれることとは、自由とは、そういうことじゃない。彼女自身が思い立った時、気が向いた時、行きたいところに行き、見たいものを見、したいことをしなければ意味はないのだ。

〈合理的配慮〉正当な理由なく、障害者へのサービスを拒否したり制限したりすることを禁ずるため、2016年に施行された障害者差別解消法の柱として明記されている。障害者から意思表明があれば、事業者の負担になりすぎない範囲で、社会的障壁を取り除くための「合理的配慮」の提供も義務づけているが、公的機関は法的義務、民間は努力義務となっている。(参考リンク:2016年4月6日 朝日新聞(耕論)障害者とともに

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写真はイメージです 出典:pixta

その少しだけ動く足の指でこの本を

ところで、彼女はツイッターをやっている。私もちょっと見させてもらったことがあった。大半は友人たちとのたわいない会話。でもその中に彼女の心の暗闇がこっそり紛れ込んでいた。

「辛くていい。楽しくなくていい。私は仕事がしたかった」
「今ここにいる意味はなんだろう……」

そんな意味合いのつぶやきを読んだ時は、比喩でなく心臓が痛んだ。

彼女は人知れず苦しんでいるのだろうか。ままならない自分を嘆いているのだろうか。泣いているんだろうか……そんな風に思うことさえある。

全部、私の思い違いであってほしい。「なに言ってるんですか。これでも結構楽しくやってますよ。実はもう彼氏もできたんです」と、私を笑い飛ばしてほしい。私に大恥をかかせてほしい。心からそうであってほしいし、実際そうかもしれない。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典:pixta

でも、私は彼女のあのつぶやきを読んでしまった。だから「彼女は結構楽しくやってるんだ」と確信が持てない。そして彼女に「〇〇ちゃん、君は自由なんだよ」と言い切ることができない。

読んでいる間、それが本当に、ずっとずっと悲しかった。目の前で女の子たちが解き放たれ、翼を得、自由になっていくさまを読んでいるからなおさら。そしてはらださんのように、なにも彼女にしてやれない自分が悲しかった。してやるなんて、おこがましい限りなのだけど。

それでも……私はこの本を彼女に勧めたい。読んでほしい。

今すぐ読んでもらわなくてもいい。しばらくはほったらかしでもいい。でもいつか、その少しだけ動く足の指でこの本を開く時が、彼女にきてくれないだろうか。

そして「もしかしたら、私も、私だって……」と感じる瞬間がおとずれてくれないだろうか。そして窓の外にどこまでも広がる青い空に目を向けてくれないだろうか。

その瞬間が来ることを心から信じたい。願っている。それが現実となることを心のどこかで確信もしている。

なぜなら彼女にその瞬間をもたらすまばゆい輝きと鮮やかさと愛情が、この本にはあるのだから。解き放たれた女の子たちが躍動しているのだから。そしてなにより、彼女と女の子たちは、等しく自由なのだから。

不自由な生活とは?

先日、通院から帰る車中、通りかかった中学校で入学式が開かれていて、信号待ちの間つい眺めてしまった。真新しい制服を着た新入生と、スーツや着物姿の親御さんたちが「令和二年度 入学式」の看板の前で記念撮影をしていた。撮影の順番待ちをしていたひとりの男子生徒が、しきりに襟元を気にしているのに思わず口元が緩んだ。

だが入学式が終わっても、まだ新入生たちは学校に通えない。言うまでもなく新型コロナウイルス拡大の影響だ。私が住む南東北の県でも感染者が日々増えていっている。学校もいつ再開されるか見通しはたっていない。新入生たちの制服がまた明日からクローゼットにしまわれてしまうのかと思うと、少し胸が痛くなった。

新入生たちだけではない。今はすべてのひとたちが「自由」と「不自由」のはざまにいる。

家にできるだけとどまるように。特に必要ではない外出は控えて。手洗いうがい、マスクも絶対忘れずに。そんなことを強いられたのは、ほとんどのひとがはじめてだろう。もちろん私もそうだ。

でも、と、ここで彼女の姿が思い出された。今回のことが起きるずっと前から、彼女はそんな生活を送ってきたのだ。ずっと「自由」と「不自由」のはざまで生きてきたのだ、と。

仕事や遊びどころか、外に出ることさえままならない日々。これから大きな変化がおとずれるかもしれない。それを強く望みもするけど、それにはいろんな困難が伴うことが察せられる。

「自由」と「不自由」のはざまについて、もっとも芯からわかっているひとが私のまわりにいるとしたら、まちがいなく彼女だ。

せわしない毎日や私自身の体調不良が重なったこともあり、彼女とはしばらく会えていない。連絡も途絶えている。だから本も渡せないままだ。

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写真はイメージです 出典:pixta

しばらくぶりに連絡をしてみようか。ふとそんな考えがよぎる。
今回のこと、どう思う、と。
でも少し考え、やめた。

それをたずねてどうする。彼女のこころをむだにえぐるだけのことではないのか。「別に。私は昔からそうでしたから」と答えがきたら、自分はどういう顔をすればいいのか。なんて言葉をかければいいのか。本を渡そうか迷った時とまったくおなじだ。

しかし、やはり話をしたいと思った。だが話題はそれじゃない。思い出したのだ。私が彼女と本当に話したいのは、大相撲の話題だったということを。大相撲もどうなるかわからないけど、最近のお気に入り力士は誰? やっぱり白鵬は強いよね。そういえば豊ノ島引退してさびしいね。でも松鳳山にはいつまでもがんばってほしいよね。ひさしぶりの緊張がとけたら、思い切って本のことを言ってもいいかもしれない。

やはり彼女には、あの優しいほほ笑みを浮かべていてほしいのだ。
「自由」と「不自由」のはざまにいても、彼女はいつもほほ笑んでいてくれたから。
窓の外に広がる青い空に、その瞳を向けていてほしいから。
そしていつか、本当は「自由」である自分に気づいてほしいから。

信号が青になり、私は車を走らせた。式と記念撮影を終えた親子連れの姿が、歩道にぽつぽつとあった。生徒たちも親御さんたちも今はつらいだろう。でも、私などが言うのも変だけど、なんとかがんばってほしいと願う。「自由」と「不自由」のはざまでもほほ笑み、笑っていてほしいと願う。

彼女がずっと、そうしてきたように。

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