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開口一番「謝罪と賠償を」北朝鮮での大学生交流「溝」から得た気づき
「なぜ日本語を勉強しているのですか?」「我が国を植民地化した日本から謝罪と賠償を得るためです」。2018年8月、大学生同士の交流をするため平壌を訪れた私を待っていたのは、そんなやり取りだった。ところが、話をするうちに趣味や学生生活の話などで会話が盛り上がり、いつしか、家族の話や恋バナもするように。国同士では緊張関係が続く両国。同世代の草の根交流から見えたのは「今ある溝をまず受け入れる」という一つの気づきだった。(笑下村塾・仙道洸)
北朝鮮には、日本と北朝鮮の交流を続けている「KOREA子どもキャンペーン」が企画した「学生交流」の一環として訪れた。
当時の北朝鮮は核開発やミサイル問題で国際社会の注目を集めていたが、平壌の街は、想像していたより生活感に溢れていた。日本では見ることのない指導者の肖像画やスローガン、軍人の姿がある一方で、制服を着て友人と通学したり、暑そうに満員電車に乗ったり、歩きスマホをしたりする人々の姿は、日本とあまり変わりないように感じられた。
現地の小学校では無邪気に子どもたちが走り回り、先生のスマホを借り「自撮りしよう!」と言われた際には思わず笑ってしまった。
農村地帯などでは、厳しい生活を強いられている人がいることは知っていた。一方、日本に住む私たちとあまり変わらない暮らしがあることを目の当たりにし、驚きを隠せなかった。
平壌外国語大学であった「大学生交流」では、両国の大学生が14人集まった。
自己紹介をした際、相手の学生に「なぜ日本語を学ぼうと思ったのですか?」と聞くと、開口一番「我が国を植民地化した日本から謝罪と賠償を得るためです」と返ってきた。
いきなり政治的な立場を主張され、やはり日朝の間に横たわる溝は深いと感じたが、その後の会話は、共通の趣味や日頃の学生生活の話題で盛り上がった。
大学生でも制服を着たり、日本でいうクラスのような班分けがあったり、日本との違いに驚く一方、スマホを片手に調べものをするなど、授業を受ける姿は日本の学生の姿と変わらないと感じた。
3日間の交流後、現地の学生から「いつか国交正常化したら、もっと長く遊びにきてください。家族に紹介したいんです」。そう言ってもらえたのはお世辞であってもうれしい瞬間だった。
当然、歴史の話や政治の話になると、対立する場面が生まれた。
例えば「拉致問題をはじめとする日朝間の問題があるから互いに信頼関係が築けないのでは?」と言うと、現地の学生は「拉致問題は解決済みではないか」と反論。日本では未解決の問題として残っていると伝えると、「日本の見解は知らなかったです」と返ってきた。
逆に、現地の学生が植民地時代の朝鮮人に対する差別に関する歴史について言及し、自分が今まで学んでこなかった歴史を目の当たりにすることもあった。
滞在は7日間。小学生との交流や伝統的な朝鮮料理なども体験したが、心に残ったのは学生交流で感じた深い溝だった。
帰国後も現地での経験をうまく言葉にできずにいた私は、このまま学生生活を終えられないと思い、決まっていた就職先の内定を辞退し大学院に進学した。
そして、朝鮮半島にまつわる歴史や文化を勉強し直し2019年8月、2度目の交流に参加した。
学生代表として「溝」を埋めるために何ができるか。私は、教室を飛び出してスポーツをすることを提案した。
日朝の学生が同じユニフォームを着て混合チームとなって対戦すれば、チーム間での連帯が生まれると考えたからだ。バレーボールの試合ではチームで円陣を組んだり、点を取った時はハイタッチをしたりする場面があり、前回よりも深い付き合いが形にできたと感じた。
その後の交流では、前回と同じように、歴史や政治の話で対立することもあったが、1年前と違い、その時は落ち着いて受け入れることができた。
それまで私は、日朝間に横たわる相違を一致したものに変えていかなければいけないと思っていた。しかし、現地の大学生との交流から「まずは違いを受け入れること」。そのために相手を知ることから始めなくてはいけないことを学んだ。
2回目の訪問の際、現地の学生の一人が話しかけてくれた。
「ご近所さんと仲が悪いと不安じゃないですか? 私は今同じ不安を抱えています」
その不安はだんだんと恐怖へと変わり、やがて相手への嫌悪に繋がるだろう。これこそが日朝に横たわる分断の根源なのではないだろうか。
今の社会には様々な形で分断や対立が存在している。国内においても、憲法を変えるか変えないのか、原発を廃止するかしないのか、税金を上げるのか上げないのか……。
現在の日朝間には国交もなく、人の行き来も著しく少ない。私が最初に平壌を訪れた時、指導者の銅像やスローガンに驚いたように、向こうの学生が今の日本を訪れたら戸惑うことばかりだろう。
同じように、意見の違う人同士が、日本の中でも異国に住んでいるようなすれ違いと衝突を繰り返している。
それらに疲れた人たちは、議論を止め、無関心へと突き進む。そしてやがて無知となり、ちょっとした出来事がきっかけで、後戻りできない不安や恐怖に見舞われる。まるで、コロナウイルスでトイレットペーパーがなくなったように。
自分自身が無知であることを知ること、「無知の知」が必要だ。その上で、相手の立場になって考えてみたい。
そのためには、まずは出会い、相手を知ること。人と人との関係がやがて国と国との関係改善にもつながる。
このスタンスを大事に今後も草の根交流を続けていきたい。
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