MENU CLOSE

エンタメ

バカルディの運命を決めた「笑いの尺」黄金期は20分、今は30秒でオチ

バカルディー時代の三村勝和(左)と大竹一樹(右)=1993年
バカルディー時代の三村勝和(左)と大竹一樹(右)=1993年 出典: 朝日新聞

目次

かつては、ザ・ドリフターズとコント55号、『ひょうきん族』と『加トケン』がしのぎを削っていたコント番組全盛の時代があった。潤沢な予算と20分を超える舞台で花開いた黄金期。しかし、1990年代以降の若手芸人は「ショートコント」主流の時代へ入り、数十秒でオチを求められることに。テレビの世界で起きる目まぐるしい変化にバカルディ(現・さまぁ~ず)のようなコントメインの芸人は翻弄(ほんろう)されることになる。お笑いの「尺と質」の軌跡をたどる。(ライター・鈴木旭)

【PR】指点字と手話で研究者をサポート 学術通訳の「やりがい」とは?

チームワークで人気を獲得したドリフターズ

テレビで「コント番組」の起点になった番組として挙げられるのが『おとなの漫画』(フジテレビ系・1959年3月~1964年12月終了)だ。ハナ肇とクレージーキャッツがメインの帯番組(毎週月曜~土曜日)で、10分間だけコントを生放送するというものだった。

5年後、この流れを受け継いで1時間の尺に押し上げたのがザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS系・1969年10月~1971年3月、1971年10月~1985年9月終了)だ。大がかりな舞台セットに5人のチームワークがメインのコントで絶大な人気を獲得した。

前半部分は、「母親役のいかりや長介に4人の息子がいたずらをする」といった日常的な設定で、22分ある長尺のコントを披露。全国各地の会場から生放送されていたこともあり、「突然、照明が落ちる」「演出の炎が燃え上がる」といったトラブルを含め、子どもたちの胸を高鳴らせた。

ザ・ドリフターズ結成40周年記念展に訪れた加藤茶さんら=2005年7月20日、名古屋市中区で
ザ・ドリフターズ結成40周年記念展に訪れた加藤茶さんら=2005年7月20日、名古屋市中区で 出典: 朝日新聞

アドリブやハプニングを重視したコント55号

同時代、もう一つコント番組の形をつくったのがお笑いコンビ・コント55号だ。1960年代からはじまった演芸ブームで知名度を上げ、1968年にスタートした「お昼のゴールデンショー」(フジテレビ系)、「コント55号の世界は笑う」(前・同局)で人気を不動のものとした。

ドリフと同じく、コント55号の番組においてもメインのコントは長尺だった。異なるのは、「時事ネタ」「のど自慢」「視聴者参加型」など、番組の企画コーナーで萩本の力が発揮されていった点だ。いわゆる“素人いじり”は、萩本が元祖である。

ドリフがつくり込んだコントを披露し続けたのに対して、萩本はアドリブやハプニングの面白さを重視した。コント番組、およびバラエティー番組は、芸人の特色に合わせて可能性を広げていったのだ。

坂上二郎さん=2005年5月17日
坂上二郎さん=2005年5月17日 出典: 朝日新聞

ひょうきん族、シャレの効いたくだらなさ

1980年代に入ると、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)と『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)に人気が二分する。コント55号の流れは、漫才文化とブレンドされて『ひょうきん族』へ。『全員集合』の流れは、そのメンバー(志村けん、加藤茶)の番組『加トケン』へと引き継がれていった。

どちらも毎週土曜20時から放送された1時間番組ではあるが、コントの尺と質はまるで違っている。そもそも『ひょうきん族』は、「漫才ブーム」のメンバーをメインに構成された番組だ。本格的なコントというよりも、シャレの効いたくだらない笑いを売りにしていた。

番組プロデューサーだった横澤彪氏は、朝日新聞のインタビューなどでアメリカNBCで放送されていた『サタデー・ナイト・ライブ』(1975年10月~)に影響されて制作したと公言している。その言葉の通り、CMやドラマ、特撮ヒーローなど、さまざまなパロディーを披露し、時間も短い尺から長尺まで幅広かった。

横澤彪氏=2007年
横澤彪氏=2007年 出典: 朝日新聞

短編ドラマ形式のコントで飛躍した「加トケン」

一方の『加トケン』はというと、志村けんの目指すコメディードラマのスタイルが反映されたものだった。探偵事務所で働く志村と加藤のもとに、ボスから電話指令がくる。その調査のなかで、2人の滑稽な言動が露呈されていく短編ドラマ形式のコントがメインだ。

視聴者からハプニング映像を募る「おもしろビデオコーナー」でも人気を博したが、基本的にはコントに力を入れており、番組の大半の尺を使っていた。

時流に乗った『ひょうきん族』と、ドリフからの脱却、および飛躍に挑戦した『加トケン』は、現在にも通じるスタジオコントの基礎になった番組と言えるだろう。

加藤茶=2008年11月17日、堀英治撮影
加藤茶=2008年11月17日、堀英治撮影 出典: 朝日新聞

お笑い第三世代を排出した『お笑いスター誕生!!』

お笑いスターがテレビで活躍を見せるなか、1970年代から一般視聴者参加型の番組も盛り上がりを見せていった。関西では、若手芸人と視聴者(観客)によるゲーム企画で話題となった『ヤングおー!おー!』(毎日放送・1969年7月~1982年9月終了)が、関東では、素人がネタの面白さを勝ち抜く「素人コメディアン道場」(『ぎんざNOW!』内の企画。TBS系・1972年10月~1979年9月終了)が若者を中心に人気を集めた。

1980年になると『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系・~1986年9月終了)がスタート。この番組には、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンなど、のちに「お笑い第三世代」と呼ばれる芸人が顔をそろえている。素人参加型とはいえ、すでに事務所に所属している若手芸人とアマチュアの混合で、とんねるずは無所属で10週を勝ち抜きグランプリを獲得している。

披露するネタの尺は4分~5分程度。現在、行われている『M-1グランプリ』『R-1ぐらんぷり』『キングオブコント』といった賞レースの決勝とほぼ同じ制限時間だ。そもそも素人や若手芸人のアピールのために生み出された尺であり、視聴者を飽きさせない、テレビ的な制限時間はこのころに確立されたと考えられる。

とんねるずの石橋貴明さん=2018年5月1日、東京都港区、林紗記撮影
とんねるずの石橋貴明さん=2018年5月1日、東京都港区、林紗記撮影 出典: 朝日新聞

ネタの尺が制限されて生まれた「ショートコント」

素人参加型のネタ番組が衰退を見せると、そのひな型は「クイズ」「大食い」「アトラクション」「恋愛」をモチーフとしたバラエティーへと引き継がれていった。この影響によって、若手芸人がテレビでネタを披露する機会は減っていく。

そんな状況の中で生まれたのが、ウッチャンナンチャンに代表される「ショートコント」だった。たいていの場合は、「ショートコント〇〇!」とタイトルを言ってから、数十秒でオチをつける寸劇だ。このキャッチ―さがテレビで大当たりする。ショートコントは若手芸人の定番となり、バラエティー番組のちょっとした合間など、ネタ番組以外で頻繁に見られるようになった。

現在でも特番で放送されている『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ系)の見せ方は、マニアックなモノマネに、奈落へと落ちる演出を加えた「ショートコントの進化形」と言えるだろう。

南原清隆さん=2001年7月20日
南原清隆さん=2001年7月20日 出典: 朝日新聞

いばらの道を歩んだ芸人も

限られた芸人を除いて、テレビでコントを披露する時間が数十秒になった1990年代。もちろん若手芸人であれば勝ち抜きのネタ番組で実力を示すチャンスはあった。しかし、デビュー後、間もなく人気に火がつくも途中で陰りを見せたバカルディ(現・さまぁ~ず)のようなコンビは、いばらの道を歩むことになった。

彼らは基本的に漫才ではなく、それなりに尺をとるキャラクター重視のコントを得意としていた。『ボキャブラ天国』(フジテレビ系・1992年10月~1999年9月終了)のように、ダジャレや替え歌を数十秒で披露する番組には抵抗があったのだろう。当事者である大竹一樹は、バカルディ時代に同番組の出演依頼を断っていたと、放送作家・鈴木おさむのWEBサイト「おさむショー」(現在は閉鎖状態)での対談で明かしている。テレビ出演は激減し、大竹は一時期番組の放送作家で苦難をしのぐまでになった。そのなか、1994年からメインに据えたのが単独ライブだった。

1993年に結成したバナナマンも、ショートコント全盛の時代にそぐわないコント師だった。彼らのコントは、デビュー当時から20分以上あるものが多い。毎年開催している単独ライブでは高い評価を受けていたものの、すぐに披露できるショートコントを持っていないため、1990年代は番組に呼ばれてもなかなか結果を残せずにいた。

バカルディー時代の三村勝和(左)と大竹一樹(右)=1993年
バカルディー時代の三村勝和(左)と大竹一樹(右)=1993年 出典: 朝日新聞

テレビで活躍もライブ続ける

バカルディとバナナマンという「長尺」を売りにした芸人2組が頭角を現しはじめたのは、2000年に入ってからだ。くしくもショートコントの生みの親と言える、ウッチャンナンチャンの番組が転機となった。

バカルディは、『ウンナンの気分は上々。〜FEEL SO NICE.』(TBS系・1996年7月~2003年9月終了)に出演してコンビ名を「さまぁ〜ず」に改名してからブレーク。バナナマンは2003年に『内村プロデュース』(テレビ朝日系・2000年4月~2005年9月終了)に出演して以降、アドリブがきいたテレビ的な笑いのスキルを高め、徐々に露出を増やしていった。その後、テレビでの活躍は周知の通りである。

さまぁ~ずとバナナマン、ともに感服するのは、ブレーク後も単独ライブを継続していることだ。ある時代までは「ネタは芸人がテレビで売れるまでの足がかり」という考え方があった。しかし、この2組は冠番組を持っている今でもコントをつくり続けている。まるで「コントあっての芸人」というひそかな情熱が伝わってくるようだ。

彼らによって、テレビでの活躍とコントライブは別物という趣向が生まれた。現在でも多くの若手芸人から支持を集めているのは、こうしたパイオニアとしての一面もあってのことだろう。

関連記事

PICKUP PR

PR記事

新着記事

CLOSE

Q 取材リクエストする

取材にご協力頂ける場合はメールアドレスをご記入ください
編集部からご連絡させていただくことがございます