連載
#49 #となりの外国人
ポケットには「在留カード」、パオロが日本に「認められる」まで
「大変だけど、頑張ったら、将来につながっているから」
日本で暮らす外国人の運命を決めるのが在留資格です。フィリピンからやってきたパオロさんは、18歳でその試練に立ち向かい、自分で人生を切り開きました。「悔しいこともあるけど、日本語ができたら、ここを乗り越えたら、(日本人と)同じになれるんです」。今は学校に通いながらホテルで働く日々。コロナウイルスで将来の不安が消えない中、「お互いがんばりましょう」と言えるまでの道のりを聞きました。
来日5年目、18歳のパオロさんに、つらい時、楽しい時、共にあった音楽を聴きました。日本での暮らしを励ました日本と海外の音楽を聴きながら記事を読んでみませんか?
フィリピン出身のパオロさん(18)と出会ったのは、都立一橋定時制高校でした。外国出身の生徒も多い高校で、いろいろな国の出身者が集う、多言語交流部「One World」がある、と聞いて取材にいったのです。
パオロさんはその副部長でした。
One World部では、認定NPO法人カタリバ、一般社団法人Kuriya、大学と連携し、海外から学びに来ている留学生や親が外国出身の日本育ちの大学生と対話しながら、進路について考えるワークショップを重ねていました。
2019年11月にあった総仕上げの交流会を、私は見に行きました。
1人1人が人生を振り返りながら、「人生で直面した課題をどう乗り越えたか」などを話していきます。
パオロさんは「フィリピンで10歳の時にかくれんぼ中にクギを踏みつけた」ことなど、その時々の「困難」を語りました。
「人生の分岐点」として挙げたのは、日本に来た中学3年生の時。日本語がまだ分からない中、修学旅行中にバスで寝ていたら、突然、クラスメートに頭をはたかれました。
「何するんだよ」と手を払ったら、「キモい」。聞こえるように陰口を言われ、「ヤメテー」と日本語の発音をマネされて、笑われました。
その時の悔しさが「人生の分岐点」だと言うパオロさん。
「絶対、日本語を話せるようになってやるって、死にものぐるいで勉強したんです」
自分の強みを聞かれて、パオロさんが話していたことが印象的でした。「日本にいる外国人は、文化の違いがあっても合わせるしかない。それが『弱み』、でも、強みでもある」
もっと話を聞きたいと思った直後、パオロさんが先生から受け取ったメモ用紙を見て、叫び声を上げました。
「やった!! すげえ、うれしい……」
顔を紅潮させて、目に涙を浮かべたパオロさんは、「これで在留資格が切り替えられるかもしれない。人生が進み始めるかもしれないんです」とつぶやきました。
高校3年生がそこまで歓喜した意味を改めて聞いてみたいと、卒業式を控えたパオロさんにインタビューに行きました。
ショッピングセンターやカフェが駅前にたくさんあるのが、パオロさんが暮らしている町です。川沿いに整備された公園のカフェで、話を聞きました。
「日本に初めて来た時、父にこの公園に連れてきてもらったんです。本当にきれいな場所で『楽園じゃないか』って思いました。『このままいる?』って父に聞かれて、『いいよ!』って即答したんです」
父は日本で、大使館の運転手として働いていました。
日本には父を訪ねる旅行のつもりで来たのですが、このときの会話で、移住することが決まりました。
日本で暮らす両親からは「日本で暮らすなら、頑張らないといけないよ。日本語をマスターして、漢字も覚えて。大変だけど頑張ったら、きっと自分の将来につながるから」と最初に言い聞かせられました。
「もう、日本に住んで5年目です。早くないですか?」と笑うパオロさん。「どんな4年間でしたか」と聞くと、「山あり、谷あり、でしたね」と振り返りました。
「一番の山」として挙げたのは、進路についてでした。「在留資格のことでずっと悩んでいたんです」
自分の在留資格には、日本で暮らしていくのに問題があると気づいたのは高校1年の時でした。
必死に勉強したおかげで、来日2年目で日本語を話す自信を付けていました。「アルバイトをして親を経済的に支えてあげたい」
マクドナルドの店員に憧れて、店に直接電話をしました。すると「外国の方ですか? 資格外活動許可を取ってきてください」と言われました。
パオロさんは大使館で運転手として働く父の「公用」の在留資格を持っていました。働くための在留資格以外でも、「資格外活動許可」を得れば、週28時間まで働くことができます。
ところが出入国在留管理局(入管)に相談に行くと、「この在留資格では働けないですよ」とだけ言われました。ショックを受けたパオロさんはそれ以上聞く事ができませんでした。
「高校卒業したら、どうしたらいいんだろう」。高校1年生で、未来を案じ、途方に暮れました。
「進学したいけど、お金はない」
「働きたいけど、働くこともできない」
自分と年が近い弟2人の学費や通学費もかかりました。保育園に通う妹もいました。
パオロさんが高校入学時には週2千円もらっていたお小遣いは、しばらくすると月5千円に減り、月3千円になり……、2年生のときはゼロになっていました。
「もしバイトができていたら、何を買いたかったですか?」聞くと、「靴がほしかった。でも、やっぱり定期券や必要なものを買って、親に負担をかけないようにしたかったですね」
バイトが出来なかった分、部活に励みました。One World部以外に、バスケットボール部で部長も務めました。
バスケットボールでは、定時制通信制の全国大会に出場したり、東京都の選抜チームに選ばれたり。「自分の力が生かせる場で、結果も出せた。すごく楽しかった」
2年生になり、進路の講座を受けた時、消防士の仕事に憧れました。「人の命を救うなんて、かっこよくないっすか?」
でも、募集要項を見ると「日本国籍を有しない人は受験できない」と書いてありました。
進路決定の時期、日本人の友達や、外国出身でも在留資格に問題がない友達は、次々と進路を決めていく中で、「1人だけ、どうしたら良いか分からなかった」。
助けてくれたのは先生たちでした。
働きながら、勉強できる専門学校がある、と紹介してくれました。ホテル業界の専門学校で、「接客もむいているはず」と希望を持ちました。
「特定活動」という在留資格に切り替える方法がある、ということも、先生が外国ルーツの子どもたちの在留資格に詳しい韓泰英弁護士に相談して見つけてくれました。受験やホテルへの面接試験と並行して、ビザを切り替えるための書類集めを、先生たちも手伝ってくれました。
「学校の成績(調査書)も、全部見せました。僕が『認められるべきかどうか』って」
フィリピンでの成績は「良くも悪くもない」ぐらいのパオロさんでしたが、日本では両親の教え通り地道に勉強を続けていました。「3年生の1学期はオール5だったんです」
在留資格の申請に必要な、専門学校の合格や企業の内定などの書類、そして成績を書いた調査書もそろえて、1人で入管へ向かいました。
ところが窓口で「学歴や働いた経験がないと切り替えできないですよ」と突き返されました。2度目の挫折。
「やばいですよ、ダメって言われました……」。今度もだめかもしれない、そう落ち込んで先生に報告しました。
でも今回は先生、弁護士が入管に事情を聞き、再度、入管に申請をすることができました。
申請から1カ月半が過ぎた夜、携帯電話をいじっていると弁護士からメッセージが来ました。「変更が認められました」
慌てて電話をかけ直し、「もう1回、言って下さい」と確認しました。直接聞いても、なかなか信じられないほどでした。
来日したときに両親から聞いた「大変だけど、頑張ったら、将来につながっているから」という言葉を、パオロさんは繰り返しました。そして「ここにつながっていたんですね」と言って、上着のポケットをつかみました。インタビュー中も、何度も確かめるようにつかんでいたポケットの中には、取ったばかりの「特定活動」の在留カードが入っていました。
「すべて、こっからですけどね」
もし、フィリピンで暮らし続けることを選んでいたら、大学進学や、消防士になるための国籍条項など、日本で経験したような夢への制限は少なかったはずです。
私はパオロさんに「もしいま、4年前、公園でお父さんに『このままいる?』と聞かれたときに戻ることができたら、違う答えをしますか?」と聞きました。
するとパオロさんは即答しました。
「もちろん、このまま日本にいます。いつもどこでも、大変なことは絶対にある。『山』からは逃げられないんです。でも自分が頑張れば、結果は出るから」
日本で自分の力で生活をしていくのが、今の目標だと言います。
別れ際、パオロさんはこう話していました。
「日本のルール、なめちゃいけないんです、外国人として日本にいる限り。humble(謙虚)であること。それが求められているなら、心を日本人にすればいい」
ワークショップのときに言った「日本に合わせないといけない、それが弱みでもあり、『強み』でもある」という言葉に、答えを付け足しました。
「壁を乗り越えるために頑張る。だから、強くなれる。悔しいこともあるけど、日本語ができたら、ここを乗り越えたら、(日本人と)同じになれるんです」
手を水平に動かして、「対等」という意味のジェスチャーをするパオロさん。その意味を考えたとき、私は寂しさも感じていました。
日本語や、在留資格。「日本」を尊重して、現実を受け入れ、さまざまな「ハードル」を越えるために、前向きに努力してきたパオロさん。一方の「日本」の方は、パオロさんの何かを受け入れようとしていたのでしょうか?
日本にとって、様々なルーツを持つ人たちと同じ社会を作っていくという未来は避けて通れないはずです。だとしたら、パオロさんのような子どもたちの思いを知ることで、「日本」の方も少しずつ価値観をアップデートしていかなければいかないのかもしれないと思いました。
高校の卒業式で、パオロさんは学業と部活動で優秀な成績を収め、全校生徒の中で男女各1人しか選ばれない「東京都高等学校体育連盟体育優良生徒」として、表彰されました。
春、パオロさんの新生活が始まりました。
朝7時から午後3時半まで、新宿にある有数の高級ホテルのラウンジで、ウェイターとして働きます。
その後、午後6時から午後9時まで学校で授業。帰宅は午後10時。大変だけど、仕事は学ぶことが多く、学校では新しい友達もできました。
「慣れるまで、がんばろう」
そう思っていた矢先、緊急事態宣言で、学校は休校に、仕事も休みになりました。両親も仕事が激減しました。
今は課題を家でこなしています。この先、仕事はどうなるのか、給料が出ないとしたら月6万4千円の学費は払えるのか。
「なるだけ早くコロナ消えてほしいです。いつ終わりますか? 1年?? やば~~、そりゃないでしょう……」
少し声を落としましたが、すぐにパオロさんは「でも、なんとかなりますよね。お互いがんばりましょう」。そう言って、私にも励ましの言葉をくれました。
1/7枚