連載
#47 #となりの外国人
となりの外国人の「日常」聞いてみた ネパール人少女が見せた強がり
カレー屋さんの親子の話です
まちなかで、「外国人」が働いている光景を見ることはめずらしいことではなくなってきました。普段、何げなく接している「外国人」ですが、どんなことを考え笑ったり悲しんだりしているのでしょうか。東京都福生市には、ネパール人一家が経営する焼きたてナンが食べられるカレー店があります。「家族一緒に暮らせることが一番幸せ」と働くお母さんと、日本でできた親友に支えられながら頑張る女の子に会いました。
東京都福生市にある「アジアンダイニング カマラ」。駅から徒歩5分ぐらいの商店街の一角にあるエスニック料理のレストランです。米軍横田基地の近くということもあり、アメリカ人も多く利用しています。
開店1時間前、女性が店の前をほうきで掃いていました。カマラさん(29)です。夫ラムさんと、夫婦でこの店を切り盛りしています。
店名の「カマラ」は妻の名前から、ラムさんが付けました。メニューには娘の名前からとった「シムランセット」(カレー、ナン、チキン、デザート付き)もありました。ラムさんは口数少なく厨房に徹する「職人」という感じでしたが、店は家族への愛情が溢れています。
店内に、長女シムランさんがいました。小学校6年生で、取材に行った日は卒業式間近でした。新型コロナウイルスの影響で、1年半通った日本の小学校は休校になっていました。「卒業式の練習、全然やってない」とぼやきながらも、父と兼用のスマホを見ながら「LINEで友だちと電話しているし、寂しくないよ」と、「SEKAI NO OWARI」の曲を流しながら口ずさみました。日本でできた友達に教えてもらったそうです。
「その子は私に日本語を教えてくれて、反対に私がネパール語を教えてる。親友なんだ!」とシムランさんはうれしそうに話しました。
私が初めてシムランさんに会ったのは2019年夏休みでした。
外国にルーツを持つ子どもたち向けの学習支援事業「YSCグローバル・スクール」(運営・NPO法人青少年自立援助センター)で、夏休みの宿題を教えるボランティアを体験させてもらったとき。私のノートに、来日半年で覚えたひらがなと漢字を駆使して「休みのしゅくだいおわりました」とつづり、屈託のない笑顔を見せたのがシムランさんでした。
毎日のように教室に通って、お盆前にはほとんどの宿題を終わらせていました。
会話は日本語学習で最初に習う「~です」「~ます」言葉でしたが、「漢字を覚えるのも、勉強も好きです」「夏休みの残りは、お店でお母さんをヘルプします」と話していました。
それからわずか7カ月で、シムランさんが日本の小6女子っぽい口調になったことに、私は驚きました。そして、なんとなく、「屈託のなさ」がなくなったようで、気になりました。
家族のこれまでのことを母親のカマラさんに教えてもらいました。取材のとき、カマラさんは「すみません、私、日本語、少しだけ。話す、むずかしい。聞く、分かります」と謝りました。
カマラさんとの話を、日本語学校と専門学校を卒業し、もんじゃ焼き店で働いているネパール人、ラナさんに通訳してもらいました。
家族の故郷は、ネパールのアンナプルナ連峰をのぞむ「ポカラ」という街の近く。
「ネパールでは、家族はみんなで暮らします」。田んぼで米を作り、果樹園を営んでいたそうです。
カマラさんは15歳のときにラムさんと結婚しました。妊娠中に学校に通いました。「私は高卒だから、英語も少しだけしか話せません」と寂しそうに笑いました。
結婚後、ラムさんはベトナムで仕事を見つけました。
カマラさんの家族には、アメリカ、ドバイ、カタールなどで働く人もいて、大きな祭りがあるときに、故郷に集まります。「子どもたちは、残った家族みんなで世話をします。日本は親だけで子どもを見ているから、みんな忙しそうですね」
ラムさんはアジア各国の料理を勉強した後、来日して、千葉県のショッピングモールに入っている有名カレーチェーン店で働きました。
カマラさんは、シムランさんが2歳のとき、日本に来ました。その時のことを思い出し、「いっぱい泣いた。毎日、さみしい」と知っている日本語で話しました。
日本で13年、コックとして働いた父ラムさんは経営者として独立し、母カマラさんと東京都福生市にレストランを築きました。店の初期投資はネパールの家族が助けてくれました。そして、2018年11月、シムランさんと長男を、ネパールから日本に呼び寄せました。
「家族一緒に暮らせる今が一番幸せです」とカマラさんは言いました。
カマラさんは「これからも日本で暮らしたい。日本のルールが好きなんです。仕事をするときは、仕事。勉強するときは、勉強。そういう日本が好き。人も優しいです」と話します。
日本語のメニュー作りのときは、日本人のお客さんも手伝ってくれました。請求書など、文書が手紙で届くと、最初は近所の日本人に「何が届いたのか、どうしたら良いのか」と教えてもらいに行きました。そのうち、請求書の形や色を覚えて「○○の請求だ」と認識できるようになりました。
今は、シムランさんが助けてくれると言い、カマラさんは「シムランは、私の日本語の先生です」と話しました。
私がシムランさんのことを聞くと、カマラさんは日本語ですらすらと「シムラン、踊りも上手。歌も上手。何でもできる」と嬉しそうに語りました。きっと何度も繰り返してきた日本語なんだろうと思いました。
自分は高卒で英語が苦手だと語ったカマラさんは、「シムランは、幼稚園の時から英語を勉強しました。ネパール語、ヒンディー語、英語、そして今は日本語が話せます。ネパールの小学校では成績も一番。クラスのリーダーだったんです」と誇りました。
シムランさんは日本にきて1カ月は、毎日のように泣いていたそうです。「ネパールの先生も電話してきて、『いつ戻ってくるの?』と聞かれていました。でも日本で友達ができて、今はもう泣きません」
シムランさんは「中学校に行ったら、友達とは組みが違っても同じ部活に入ろうって話している」、そう嬉しそうに語ってくれました。
でも、中学校生活に話しが及ぶと、半年前のように屈託なく「勉強好きです」とは答えなくなっていました。「心配。え~、だって……勉強、難しいから」
休校になるにあたって、小学校では束のようなプリントが配られました。難しかったという算数の宿題を見せてもらうと文章題でした。
「……円柱Aから、底面の円の半径が8㎝で円柱Aの高さと同じ高さの円柱Bをくりぬいて、つつ状にしました……」
会話こそ急成長していたシムランさんですが、「円柱」を「はんけい?」と読み間違えたり、「つつ状って何?」と考え込んだり、「くりぬく」など普段会話では使わないだろう言葉にもつまづいていました。
算数はネパールでもやっていましたが、文章題で必要なのは読解力。筆算もネパールとはやり方が違ったり「九九」がなかったり、教え方の違いに、戸惑いもあったようです。
学校なら、友達や先生がフォローしてくれているのかもしれません。でもふと、学校での授業時間、読めない問題を前に、机に座っているシムランさんの姿を想像してしまいました。
来日した時、実際の学年より1年下げて、4年生から始めるかどうかを聞かれたそうです。そのとき、シムランさんは実年齢と同じ5年生から始めたいと希望しました。
中学入学を控えた今、シムランさんは「あ~、また4年生からやりたいなぁ……」とつぶやき、「ジョーダンだけどね」と慌てて強調して笑って見せました。
夏休みに将来の夢を聞いたとき、「日本のドクターになりたいです。優しいドクターです」と答えたシムランさん。7カ月経ち、同じ質問すると、「変わりません、夢はドクターです。でも……」。最後の言葉は小さく、聞き取れませんでした。「ジョーダン」と言った時と同じような顔をしたので、それ以上は聞けませんでした。あの笑顔が、取材を終えた今も、ずっと心に引っかかっています。
◇ ◇ ◇
〈シムランさんが通うYSCグローバルスクールの山田拓路さんの話〉
外国にルーツがある子どもたちの中には、親が日本に暮らし続けることを希望している子も増えています。「外国人」と言っても、日本の次の世代を担う一員になる子どもたちです。少子高齢化で子どもが減っている中で、その子たちが、日本で夢をかなえられるようになったら、日本の社会はもっと豊かになる。そう思って、シムランさんたちを支援をしています。
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