連載
#15 #カミサマに満ちたセカイ
「家に盗聴器が…」闇を抱えた父に母がとった行動 娘がマンガに描く
娘の目から見た、家族の小さな歴史
「隣のおばさんは、悪い組織の仲間だ。殺されるぞ!」。父から突然、そう告げられた経験を扱った漫画があります。精神疾患により繰り返される、奇妙な言動。崩壊の危機に陥る家族を救ったのは、クリスチャンである母でした。何かを強く信じることが、人生の理不尽さに立ち向かう力になるかもしれない。そんな思いを込めたという作者に、これまでの歩みについて聞きました。(withnews編集部・神戸郁人)
作品は、ゆめのさんの小学生時代から始まります。2歳年上の兄と、明るくおしゃべり好きの母、生真面目で寡黙な公務員の父との4人暮らし。裕福ではなくても、穏やかで静かな暮らしを営んでいました。
両親は、それぞれ違った価値観の持ち主です。
父は若い頃、社会主義に関する本を読みふけり、学生運動に没頭。合理的な思考を大切にしていました。片や、母は目に見えない「神様」を信じる少女時代を送り、留学先の米国でキリスト教と出会います。帰国後に洗礼を受け、結婚してからも教会に通っていたのです。
考え方の違いから、互いに衝突することもしばしば。それでも、ともに家庭を守るため、仕事や育児に力を注ぎました。
しかし、大きな課題もありました。ゆめのさんたちが生まれた頃から、父が精神科に通っていたのです。
人付き合いが苦手で、職場にうまくなじめない。父は同僚すら信用できず、ストレスをため込んでいました。服薬治療を続けたものの、なかなか改善しません。次第に、「隣家の住民に監視されている」といった、とっぴな意見を口にするようになります。
幻聴や妄想が特徴の精神疾患、「統合失調症」の症状でした。
「家に盗聴器と監視カメラが仕掛けられている」「隣のおばさんは悪い組織の仲間だ。殺されるぞ!」。成長したゆめのさんにも、父はそんなメモを手渡しました。
次第にかみ合わなくなっていく、家族の歯車。両親と兄、そしてゆめのさん自身は、どう行動したのか――。ままならない現実と向き合う、一人一人の物語が、柔らかなタッチで紡がれます。
精神疾患による父の幻聴や妄想は、攻撃的な内容であることも少なくなかったそうです。しかし母は、あっけらかんとした態度で受け止めることが多かったと、ゆめのさんは振り返ります。
「家族の形を守らないといけない。そんな義務感も手伝ったのか、あまり落ち込むことはないように見えました。もちろん、生まれついての性格あってのことかもしれません。でも同時に、『神様が助けてくれる』という信念が、大きな支えになったのではないでしょうか」
漫画を描くに当たり、ゆめのさんは両親のこれまでについて、直接話を聞きました。その中で、かつて父が母に対し、「声(幻聴)が『お前の女房を殺せ』と言っている」と伝えたことを知ったのです。
夫婦関係に影響を与えかねない、ショッキングな出来事。しかし母はこの後、何事もなかったかのように、父と食事をしていました。
「思い出を話すときも、『あのときは大変だったわ~』と笑うんです。とてもつらかったはずですが、信じるものがあることで強くなれたのかな、と感じましたね」
母は時折、世界の成り立ちについて、キリスト教的な視点から説明してくれました。夜空の星も、人間も神様が創ったもの。だからこそ、他人に優しくしなければならないーー。成長した今も、大切にしたいと思えるような言葉が、数多くあったといいます。
もっとも、宗教的な考え方全てを、素直に受け入れられたわけではありません。むしろ、科学の力を信じ、信仰を否定する父の立場に近かったそうです。
ゆめのさん自身、宗教に興味がなかったわけではなく、キリスト教の解説本を読む機会もありました。しかし、宗教戦争を繰り返した歴史などを知るうち、その権威性に疑問を持つようになります。
「思春期に入ると、ヘビーメタルといった、反キリスト教的な要素を持つ音楽に、どんどんはまっていったんです。親の思想への反抗心も、影響していたのかもしれません」
母の信仰は、家庭に意外な変化をもたらしました。ゆめのさんが小学4年の頃、父がクリスチャンになったのです。
父は疾患の影響で、職場を退職。再就職するもうまくいかず、2カ月ほどで辞めてしまいます。先行きが見えず、失意に沈むうち、母が何を慕っているのか興味を持ったのでした。
「それまでにも、いくつか転機があったようです。父は生きる気力が弱まり、自ら命を絶つことも考えたとき『幻聴とは異なる声が聞こえてきた』と話していました。たとえば、車が行き交う道路に飛び出ようとすると、『戻りなさい』と呼び掛けてくるといったものです」
こうした体験は、父の中で「神様」の概念と結びつきました。熱心に聖書を読み、その内容の解釈について、母と語り合う。人が変わったかのような振る舞いに、ゆめのさんは驚いたといいます。
「疾患によって壊れてしまったものを回復させたい。父の中に、無意識ではあっても、そういう気持ちがあったのだと思います。母の愛に応えたいという気持ちが、信心を呼び起こしたのかもしれません」
とはいえ、夫婦仲のもつれが解(ほど)かれた後も、家庭状況が劇的に改善したわけではありません。ゆめのさん自身、父となかなか折り合えず、中学時代には不登校を経験するなど、生きづらさが募るばかりでした。
そうした中で、心のよりどころとなったのが、趣味の音楽や漫画です。宗教が体になじまなかった分、自らにとって信仰に近いものになったと、ゆめのさんは語ります。
「信仰って、世界を信用することであり、生きている意味を信じることなんじゃないでしょうか。私は漫画を描くとき、作品に『神』が宿って欲しいし、読者に幸せになってもらいたいとも思う。両親の気持ちと、共通項はあるように感じます」
「神様」がいるのか、いないのか。ゆめのさんの答えは「わからない」。でも、理解しきれないからといって、両親が大切にしているものまで否定したくない。大人になり、自らにとって掛け替えのない支えを見つけられたからこそ、今はそう考えているそうです。
『心を病んだ父、神さまを信じる母』にも、そんな願いを込めました。ラストシーンには、次のような言葉がつづられています。
両親に対するかみ切れない思いも含め、過去をまるごと引き受けていく。ゆめのさんの静かな決意は、人生が信頼に足るものと念じる、祈りのような感情に満たされています。
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