連載
#8 #カミサマに満ちたセカイ
「悪くて死ぬだけ」ムスリム中田考「諦め」と生きづらさ打破する言葉
イスラム教徒が語る、生きやすくなるヒント
「一体、誰に承認されたいんでしょう? 私は幻想だと思います」。イスラム法学者の中田考さん(59)は、大学生の頃にムスリム(イスラム教徒)となり、最前線で研究を続けてきました。「自分だけでつくったものなんて、何もない。能力も、才能も、環境も」。そう語りながら、大学を辞めた後も学生たちと勉強を続けています。神という絶対的なものを信じ、「自分ではどうしようもできない現実がある」と知ることで見える風景。独自の視点から導かれる、その強烈な主張が伝えるのは、自分や他人への期待を手放す意味でした。(withnews編集部・神戸郁人)
とあるアパートの一室。玄関ドアの呼び鈴を押すと、「どうぞ」と声が聞こえてきます。部屋の中で、中田さんが出迎えてくれました。
テーブルの上には、チューリップ柄のデザインが施されたカップ。黄色味の強いアラブコーヒーで満たされ、脇にロクムと呼ばれるトルコのお菓子も。ありがたいもてなしに、思わず気持ちが緩みます。
中田さんの外見といえば、胸の辺りまで伸びたあごひげに、ゆったりとした中東風の衣服をまとった姿。そのいでたちは、私(記者)の中にあったムスリムのイメージと、ぴったり一致します。
一方で「そもそもイスラム教とは何か」ということについては、断片的な知識しか持ち合わせていません。まず、その点から切り出すことにしました。
「理論的には、『(唯一神)アッラーのほかに神はない』ということが基本です。ここで言う神は、崇拝の対象になります」
「さらに(神のメッセージを受け取り、伝える)預言者ムハンマドがいる。これらを信じれば、他のことは気にしなくていい。その意味では、非常に気楽ですよ」
イスラム教と聞くと、まず戒律のことが頭に浮かびます。よく知られているのは、「一日に5回礼拝する」「豚肉やお酒を避ける」といった、聖典「クルアーン(コーラン)」に基づく義務でしょう。
入信していない私にとっては、正直なところ、やや窮屈な印象もあります。
「大半の信徒は、親や社会がイスラームだから、それにならっています。義務も考えて果たすというよりは、周りに合わせているだけ、ということが多い。慣習化されているんですね。だから取り立ててつらいわけではない」
「より本質的で重要なのは、”自分に何ができて、何ができないか”、そして”何をすべきか”について知ることです」
中田さんは著書『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)で、ムスリム的な生き方について、次のように記しています。
神に仕える信徒は、まず宗教的義務を果たす必要があります。そして聖典に従うということは、一人一人が能力に応じ、自分が主体的に何をすべきかを、聖典の言葉の中に見出すように努力する。そういった趣旨なのだそうです。
「クルアーンは、”『カリフ』というリーダーを立てて、イスラームの法律によって治められる世界をつくりなさい”と説いています。私は大学院時代から、その内容への理解を深めてきました。学者として研究を続けることが、”自分にできること・すべきこと”であると思っています」
中田さんによると、カリフをいただく政治制度は「カリフ制」と呼ばれます。国境をなくし、新たな共同体をつくる、というのが基本的な考え方です。
現代社会において、この政体を採用している国はありません。しかし、似たモチーフは、中田さんが愛読している漫画の中にも見いだせるといいます。
たとえば、紀元前の中国大陸を舞台に、天下統一を目指す武将たちの生き様を描いた『キングダム』(原泰久著・集英社)。主人公・信(しん)が、親友である後の始皇帝・嬴政(えいせい)について語る次のセリフは、カリフ制の本質と重なるそうです。
あるいは、明治維新がテーマの『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(和月伸宏著・集英社)。作中で主人公・緋村(ひむら)剣心は、政府転覆を企てる敵将・志々雄真実(まこと)の部下、瀬田宗次郎と刃(やいば)を交え打ち負かします。
「弱肉強食」をよしとする志々雄と対照的に、無闇に人を殺さないと誓う剣心は、こう宗次郎に告げるのです。
中田さんはこの一幕について、ウェブ上の寄稿記事で、以下のように解釈しています。
「クルアーンや法学書に、カリフ制再興への具体的な道筋に関する答えは書かれていないんですね。でも漫画を読むと、実現に役立つヒントや、イスラームとの共通項が見つかることがある。そうやって自分なりのやり方を見つけることが大事なんです」
一般に、生活を縛るものと思われがちな、イスラム教における義務。中田さんはその先に、ある種の使命を見いだしていました。
宗教的権威に自分を明け渡すのではなく、むしろ人生に責任を持つ。生き方の支柱とも言うべきものに触れた気がして、私は新鮮な驚きを覚えました。
かといって、誰もが生きがいを得られているわけではありません。だからこそ、他者から承認されたいと望む人が、数多く存在するのではないでしょうか? 中田さんは、そんな疑問を「幻想」と退けます。
「よく『承認欲求が満たされない』と言いますが、そもそも承認するのは誰なんでしょう? 第一、本当に認めてもらえているのかどうか」
「本当に価値あることをなしていれば、周りに認められようと、認められなかろうと、価値はあるわけです。人に受け入れてもらえない、という悩みは幻想だと思います」
中田さんは続けます。
「確かに、私もツイッターの『いいね』数が気になることはあります。でもそれは『カリフ制再興についての投稿が支持を得れば、実現に一歩近づく』という合理的な理由があるから。そうでなければ、どうだっていいわけです」
「その『どうでもよさ』と、『自分がつらいと思ってしまっているだけ』という事実に気付くべきでしょう」
大きな目標があれば、些事(さじ)には惑わされない――。なるほど、とうなずきましたが、一つわからないことがありました。日々の暮らしには、突然仕事を失ったり、死を迎えたりする不安が付きまといます。
誰かからの承認なくして、喪失への恐れを乗り越えることはできるのでしょうか?
「身もふたもないですが、イスラーム的に言えば『悪くても死ぬだけ』ということです。現世で罪を犯せば、来世で永遠に焼かれてしまう。その大変さに比べたら、この世は遊びと言ってもいい。逆に『生きなきゃいけない』と思い続ける方が、しんどいんじゃないでしょうか。いくらそう思っても、結局みんな死ぬんですから」
「11年ほど前、妻をガンで亡くしました。それ以降は余生だと思っています。教授として勤めていた大学を辞め、今は健康保険や国民年金にも加入していません。この世に何の未練もありませんので、今日死んでも何の心残りもありません。いわば死ぬための準備をしている。年をとったせいもあるでしょうけれど、すごく心が楽ですね」
中田さんが口にした「諦め」は、後ろ向きなものにも思えます。しかし物事が首尾よく運ばないとき、自分や他人への過剰な期待を手放すと、気持ちが軽くなることも少なくありません。
そのような視点で捉えれば、生きることの「ままならなさ」を、柔らかく受け止めるための心構えであると言えるかもしれない。私は、そう感じました。
中田さんは、笑いながら言葉を継ぎます。
「私にとって、もう生きる意味はないんです。とはいえ、一方で、どうでもいい人生であっても、生きていなければならないのであれば、できるだけ無駄に不快なことをするのは避けたいとは思います。そうならないよう、貧しくともストレスのない、自分が快適と思える毎日を送っています」
テンションの低い発言と裏腹に、その生活は案外楽しそうです。取材中、2人の大学生が部屋を訪れました。トルコ語やアラビア語を、定期的に学びに来ているといいます。
「実は、無料で教えているだけでなく、私の方が彼らに学費の支援をしたりしているんです。以前、留学する教え子のために、渡航費などを肩代わりしたこともありました」
「自分が本当に欲しいものを考えると、やっぱり金銭ではなくて学び、そして自分が学んだことを教え伝えることだった。まぁそもそも、学問はお金にならないですけどね」
こうした助け合いは、イスラム世界で盛んなのだそう。中田さんが大学院時代に滞在したという、エジプト・カイロでの体験は象徴的です。
このような価値観が、実生活と地続きになっている。中田さんの暮らしぶりから不思議な明るさを感じるのは、きっとそのためなのでしょう。
私は最後に、こんな質問を投げかけてみました。どうして、それほどあっけらかんと過ごせるんでしょうか?
「イスラーム的なものに触れてきたからでしょうね。結局、自分だけでつくったものなんて、何もない。能力も、才能も、環境も、全部神様に与えられたものですから。もし酸素がなくなれば、みんなすぐ死んでしまうでしょう? そういうことなんですよ」
「私はただ、世界を真正面から見ているだけなんです」
「仕事で有益な結果を生み出さなければならない」「誰かに評価されないといけない」
私たちは日常的に、何者かからのまなざしにとらわれています。それは、恐らく「生きづらさ」の代表例でしょう。
しかし、よくよく考えてみれば、そこに根拠はありません。そして、自分だけの力で何とかできることも、非常に限られています。中田さんは、すっかり「常識」とされた概念がはらむ矛盾を、軽やかに言い当てているように感じました。
神をよすがとして暮らす。特定の宗教を信じていない私にとって、その態度は縁遠いものです。しかし「生きづらさ」の根っこを見つめたとき、自分の内にも他人を「神様」のように見なしてしまう、「他者信仰」とも言うべきものがあると気付きます。
中田さんが説くムスリムのあり方は、これとは異なります。
絶対者を信じることで、生活の指針が明確になる。理不尽な出来事に直面したときの、受け止め方の幅も広がる。それは支配や抑圧といった、ステレオタイプなイメージと一線を画す、宗教の持つ本質的な力とも言えそうです。
もちろん、イスラム教的な考え方を、そのまま自分の人生に当てはめられるとは思いません。来世を現世より高く価値付ける点など、信者ではない私からすると、理解が及ばない部分も残ります。
しかし、この距離にこそ、学び取るべきものがあるのではないでしょうか。
立ち位置を入れ替えれば、私が身を置く「世界線」もまた、異質に映るはず。このような視点の違いを引き受けることは、現実を相対化し、自分にはどうしようもない状況もある、と知るきっかけになるのかもしれません。
生きることに窒息しそうになったら、中田さんの言葉を思い出してみたい。今は、そう考えています。
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