感動
難民の取材で訪れた学校、あちこちから日本語のあいさつが……
バングラデシュ南東部、コックスバザールという町に、子どもたちの日本語の声が響く学校があります。日本人を見かけることがない、ロヒンギャ難民のキャンプがあることで知られる国境の町でなぜ? 理由をたずねると、記者の前で泣きだしたバングラデシュ人校長。涙の理由を聞きました。(ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
「来てくれて本当にありがとう。とてもうれしい」。ミザヌール・ラフマンさん(38)は満面の笑顔で両手を広げて迎えてくれました。
「日本の人に学校を見てもらえるのは本当に感激だ」と、少々過剰では……というくらいの強さで握手をします。
周りからは、子どもたちが「こんにちは」「ありがとうございます」と元気に日本語であいさつしてくれます。ここは本当にバングラデシュ?
ここ、コックスバザールは、20万人ほどの人が暮らす町。ミャンマーと国境を接し、郊外には2017年に逃げてきた約70万人の巨大なイスラム教徒ロヒンギャキャンプがあります。
記者はロヒンギャ難民取材のために何度もコックスバザールを訪れていました。難民取材には、複数のバングラデシュ人スタッフとともに取り組みますが、そのうちの1人で、通訳をしてくれているコックスバザール生まれのハサン・ヤシンさん(26)から、「キャンプの取材が終わったら連れていきたいところがある」と言われました。
2019年12月、一通りの取材が終わり、訪れたのは、町の中心部から車で約30分にある「アイディール(理想)・インスティテュート」。その校長がラフマンさんでした。「さあさあ、どうぞ中へ」。少し薄暗い石造りの校舎で、子どもたちは元気にあいさつしてくれました。
「日本の人のように礼儀正しく育ってほしい、そんな思いで私が教えたんです」。ラフマンさんが、にこにこしながら教えてくれました。
今、この学校では約500人の子どもたちが学んでいます。約170人が暮らす下宿も隣接しています。
設立は2008年。日本の中学校にあたる中等学校の教師だったラフマンさんが友人らとお金を出し合い、立ち上げました。「でも、始めは13人しか生徒がいなかったんです」。
当時、学校は地域から白い目を向けられていました。
「子どもを学校に行かせる余裕なんてない。教育なんて必要ない」。子どもを集めようにもなかなか来てくれません。
働き手として子どもを見る親たちにはなかなか教育の必要性が伝わりませんでした。
「地域に愛される学校にしたいのに……」。そんなことを考えていた時、たまたま、人材育成プログラムで日本に行った知り合いから、日本の教育のことをききました。
教室をきれいにする、あいさつを元気よくする、そういった日本の「姿勢」に感動したというラフマンさん。「戦争で一度どん底までになった国がどうして世界有数の経済大国になれたのか。そこに答えがある気がした」と言います。
学校の中だけでなく、外でも元気にあいさつすること。毎日、みんなで学校の掃除をする習慣もつけると、段々と地域の人たちから「うちの子どももあそこに通わせたい」と言われる場所になりました。成績優秀者も輩出し、地域で何度も「ベスト・スクール」に選ばれています。
現地にも「シュークレア」という「ありがとう」を意味する言葉はあります。でも、子どもたちには、「ありがとう」と日本語で教えることにしました。「子どもたちも日本という国にあこがれを持っている。その国の言葉を使い、日本人の気持ちを感じさせたかった」
「ようやく私の夢が現実に近づいてきた」とラフマンさんは言います。
これまでに自ら多額のお金を投じ、友人らに頼み込んで支援を受けながら学校を大きくしてきました。
なぜ、そこまでするのでしょう?
「子どもたちが犠牲になる社会はごめんだ」。以前は大人たちが子どもを脅して金をとったり、暴力を振るったりするのがこの地域では日常茶飯事でした。「教育がないからそういう社会になる。それを変えたかった」と言います。
「子どもたちに明るい未来を届けたかったから」とラフマンさん。
記者はこういう時、少し立ち止まります。ラフマンさんの言葉は美しい。そのまま受け取ってもいいのですが、これまでの経験上、こういう人たちには、突き動かすようなもっと強烈な動機があるはず。
「子どもたちのことを思っても、ここまでできる人はまずいない。あなたの人生での経験が影響しているのではないですか」ときいてみました。すると、ラフマンさんは黙り、眉間に指をあてて涙を流し始めました。
「私は(日本の中学校にあたる)7年生の時、兄から『学校をやめてサウジアラビアにいって働け』と言われました」。涙の混じった声で説明します。ラフマンさんは5人の兄と1人の姉のいる末っ子。幼いときに父親を亡くし、苦しい生活が続いていました。勉強するより働け、という兄の言葉でした。
しかし、勉強も好きで「将来のために学びたい」と思っていたラフマンさんは、学費を稼ぐために毎日、家の近くの森や林で果物の種を集め、それを路上で売る仕事を始めます。1日50バングラデシュ・タカ(約60円)ほどでしたが、それをかき集めてノートや文房具を買ったといいます。
「周りの都合で子どもから教育の機会を奪ってはいけない」
そんな思いが芽生えるきっかけでした。
高等学校や大学時代は家庭教師のアルバイトで学費をため、全て自分のお金で学費をまかないました。
念願の教員になり、充実感もありましたが、「もっと多くの子どもたちを救いたい」という思いは消えず、学校をつくることを決めたというのです。
今、運営する学校では貧しい家庭からは学費をもらっていません。子どもたちの4分の3がラフマンさんたちがつくる基金から奨学金を受けています。
「そんな、勉強できる環境に感謝する心を表すのに、日本での教育もぴったりでした」とラフマンさんは言います。
ただ、実はラフマンさんは最近、様々な壁に当たっています。
1年ほど前、脳の病気で右半身が不自由になってしまいました。教壇にも立てなくなり、学校運営の仕事も手伝ってもらうことが増えました。
さらに、ロヒンギャ難民約70万人がコックスバザールに入ってきたことで、支援する国際団体が多くの地元の人を雇ったことから、教員のなり手が激減しました。
「うちの学校で支払える給料は国際機関の3分の1程度。仕方ない」と言いますが、人材確保は深刻な危機です。
それでも、「教育は必ず子どもたちを救ってくれる」と信じ、学校運営に力を尽くしています。
2019年10月には、日本の財団法人「海外産業人材育成協会(AOTS)」の誘いで、念願の来日も果たしました。
「何もかもが新鮮で、子どもたちのためにこんな国をつくってあげたいと強く思った」と言います。
「まだまだ時間はかかりますが、自分にできることを続けていきたい」。しんどい現実を振り払うくらいの笑顔で、話してくれました。
1/16枚