お金と仕事
ゴーン被告「日本社会の一部になったと実感」絶頂期の言葉
レバノンの首都ベイルートに姿を現した日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が、日本のメディアに名前が出たのは21年前のことでした。その時から「コストカッター」として鳴らしていたゴーン被告。2004年には「私が、日本社会と日本の自動車産業の一部になったと実感している」とコメントもしていました。当時の報道から、絶頂期のゴーン被告を振り返ります。
朝日新聞の記事に初めてカルロス・ゴーン被告の名前が出てくるのは、1999年3月28日の朝刊です。記事では、「ルノーでリストラに手腕をふるった」と紹介されています。
1999年4月12日のアエラでは、ルノーでの「コストカッター」ぶりが大きく取り上げられました。
当時から、会社同士の提携よりも、ゴーン氏の移籍に注目は集まっていたようです。同じくアエラの記事でゴーン氏は「ルノー再建の立役者」という表現で評価されています。
実際に来日すると、ゴーン被告への注目はさらに高まりました。
1999年8月6日の朝日新聞の記事では、都市対抗の日産自動車と東芝の試合を観戦したゴーン被告の様子を伝えています。
ゴーン被告のまわりは常に報道陣が取り囲む状態でした。来日直後から「モーレツ」な働きぶりだったことも伝えられています。
ゴーン被告の言葉として当時、広まったのが「リバイバルプラン(再生計画)」。発表から1年後、さっそくその結果が現れます。
記事では、回復がゴーン被告の「強烈なリーダーシップのもとで進められた」と伝えています。「モーレツ」な仕事ぶりは変わらず、ついたあだ名は「セブンイレブン」とも。
2002年には、復活の象徴としてスポーツカーのフェアレディZを13年ぶりにフルモデルチェンジして発売しました。
会見でゴーン被告は、日産に入る前からフェアレディZだったと明かし「日産の再生を具現化したシンボルだ」と自信を見せていました。
2003年、2兆円あった日産の有利子負債を完済します。6月にあった株主総会で「今後も成長を続け、経営を革新する」と発言したゴーン氏。役員報酬の総額を約3割増の「年20億円以内」に増やすことも決めていました。
そして、2004年、ゴーン被告は外国人経営者として初めて、公共の利益に寄与した人に贈られる藍綬褒章を受章しました。その時、ゴーン被告は「私が、日本社会と日本の自動車産業の一部になったと実感している」とコメントを発表していました。
「ゴーンマジック」「奇跡の復活」とたたえられるカリスマ経営者。16年後、衝撃的な国外逃亡をするとは、誰も想像もしない「絶頂期」の姿でした。
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