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お金と仕事

ゴーン被告「日本社会の一部になったと実感」絶頂期の言葉

保釈され、東京拘置所を出るカルロス・ゴーン被告=2019年3月6日、東京都葛飾区、川村直子撮影
保釈され、東京拘置所を出るカルロス・ゴーン被告=2019年3月6日、東京都葛飾区、川村直子撮影 出典: 朝日新聞

目次

レバノンの首都ベイルートに姿を現した日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が、日本のメディアに名前が出たのは21年前のことでした。その時から「コストカッター」として鳴らしていたゴーン被告。2004年には「私が、日本社会と日本の自動車産業の一部になったと実感している」とコメントもしていました。当時の報道から、絶頂期のゴーン被告を振り返ります。

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1999年、初めてその名が報道

朝日新聞の記事に初めてカルロス・ゴーン被告の名前が出てくるのは、1999年3月28日の朝刊です。記事では、「ルノーでリストラに手腕をふるった」と紹介されています。

ルノーでリストラに手腕をふるったカルロス・ゴーン副社長が、日産の社長と副社長の中間に位置する最高執行責任者(COO)に就任するほか、ルノーから二人の幹部を日産の商品企画担当の副社長と財務担当の常務に迎える。塙社長はルノーの取締役に就任する。
1999年3月28日/日産・ルノー、提携発表 世界4位グループに 11分野で共同事業/朝日新聞から

1999年4月12日のアエラでは、ルノーでの「コストカッター」ぶりが大きく取り上げられました。

九七年、今後三年間で四千億円のコストを削減する計画を提案したゴーンは、ルノーのすべての部署に過酷な経費節減を要求した。九八年度には、自動車一台当たり七万七千円のコスト減を達成。九八単年度では、八十八億フラン(約一千七百六十億円)の純益を生み出すまでに回復した。
1999年4月12日/再生のカギ握る辣腕副社長 日産・ルノー提携/アエラから

当時から、会社同士の提携よりも、ゴーン氏の移籍に注目は集まっていたようです。同じくアエラの記事でゴーン氏は「ルノー再建の立役者」という表現で評価されています。

六千四百三十億円で日産自動車の株式の三六・八%を購入したルノーだが、提供した財産は資金だけではない。カルロス・ゴーンの移籍こそ、今回の提携で最も注目すべきことだともいえるのだ。
1999年4月12日/再生のカギ握る辣腕副社長 日産・ルノー提携/アエラから
日産自動車の社長就任が内定したカルロス・ゴーン氏は発表会見の席で、にこやかに受け答えした=2000年3月16日、東京都中央区の日産自動車本社で
日産自動車の社長就任が内定したカルロス・ゴーン氏は発表会見の席で、にこやかに受け答えした=2000年3月16日、東京都中央区の日産自動車本社で 出典: 朝日新聞

野球観戦も記事になる男

実際に来日すると、ゴーン被告への注目はさらに高まりました。

1999年8月6日の朝日新聞の記事では、都市対抗の日産自動車と東芝の試合を観戦したゴーン被告の様子を伝えています。

サッカーとラグビーの国からきたエリートに、野球はもの珍しかったようだ。七月末、東京ドームであった都市対抗の日産自動車と東芝の対戦に姿を見せ、試合やチアリーダーらの応援を興味深く見た。試合後には日本語であいさつするサービスぶり。「野球を見たのは初めて。でも、なかなか躍動感があるね」
1999年8月6日 カルロス・ゴーンさん 日産自動車の最高執行責任者/朝日新聞から

ゴーン被告のまわりは常に報道陣が取り囲む状態でした。来日直後から「モーレツ」な働きぶりだったことも伝えられています。

朝七時すぎには出社し、一人住まいをしている都心のホテルに戻るのは、たいてい深夜だ。
1999年8月6日 カルロス・ゴーンさん 日産自動車の最高執行責任者/朝日新聞から

「モーレツ」な仕事ぶり「セブンイレブン」

ゴーン被告の言葉として当時、広まったのが「リバイバルプラン(再生計画)」。発表から1年後、さっそくその結果が現れます。

二〇〇一年三月期決算では、過去最大の当期赤字を計上した二〇〇〇年三月期決算とうって変わり、バブル期を上回る同社にとって過去最大の当期黒字になる見込みだ。
2000年11月8日 日産の最高益 ゴーン氏の創造的破壊 井上久男(ニュースの視点)/朝日新聞から

記事では、回復がゴーン被告の「強烈なリーダーシップのもとで進められた」と伝えています。「モーレツ」な仕事ぶりは変わらず、ついたあだ名は「セブンイレブン」とも。

ゴーン氏のあだ名は「セブンイレブン」。午前七時から午後十一時まで働くことからついた。課長クラスでも優秀だと思った社員とは直接、話をする。「リバイバルプラン」の原案を策定した各チームの若手管理職とは一緒に食事をし、議論もした。黒字化の大きな要因となった購買コスト削減では、ゴーン氏と担当チームが何回も直接やり取りをし、三カ月足らずで計画をまとめ上げた。
2000年11月8日 日産の最高益 ゴーン氏の創造的破壊 井上久男(ニュースの視点)/朝日新聞から
大きな身ぶりで記者の質問に答える日産自動車のカルロス・ゴーン社長=2000年8月2日、名古屋市中区で
大きな身ぶりで記者の質問に答える日産自動車のカルロス・ゴーン社長=2000年8月2日、名古屋市中区で 出典: 朝日新聞

フェアレディZ復活を決断

2002年には、復活の象徴としてスポーツカーのフェアレディZを13年ぶりにフルモデルチェンジして発売しました。

会見でゴーン被告は、日産に入る前からフェアレディZだったと明かし「日産の再生を具現化したシンボルだ」と自信を見せていました。

業績低迷期にいったん生産中止に追い込まれたが、仏ルノーから派遣されたゴーン社長が「ブランド力の回復に貢献する」と主張して復活を決めた。価格は300万~360万円。69年発売の初代から5代目に当たる。丸みをもたせて外観を一新し、排気量3・5リットルエンジンを搭載した。米国でも同時発売し、初年度は全世界で4万2千台を売る計画だ。日産の経営に加わる前から「Z」ファンだったというゴーン社長は、発表会見で「日産の再生を具現化したシンボルだ」と述べ=写真=、日産にとって課題となっているブランド力の復活に役立つことを期待した。
2002年7月31日 日産のカオ「フェアレディZ」復活 ブランド力回復かけ13年ぶり/朝日新聞から
部屋に着くとパソコンが起動するまでの間、書類に目を通す=2001年5月9日、東京・銀座の日産本社で、撮影・川津陽一
部屋に着くとパソコンが起動するまでの間、書類に目を通す=2001年5月9日、東京・銀座の日産本社で、撮影・川津陽一 出典: 朝日新聞

2兆円の有利子負債完済、藍綬褒章を受章

2003年、2兆円あった日産の有利子負債を完済します。6月にあった株主総会で「今後も成長を続け、経営を革新する」と発言したゴーン氏。役員報酬の総額を約3割増の「年20億円以内」に増やすことも決めていました。

日産の総会は午前10時から東京都内のホテルで開かれた。4年前は約2兆円だった自動車事業の実質有利子負債をV字形の急回復で完済し、1株当たりの配当も前期より6円多い14円に増やす。入場する株主からは「株主重視は喜ばしい。よく頑張った」(70歳の男性)などの声があがった。カルロス・ゴーン社長は「今後も成長を続け、経営を革新する」と発言。取締役の定員を減らし、役員報酬は同社株価や実績に連動させる「成果型」を強め、総額を約3割増の「年20億円以内」に増やすことを決め、去年と同じ約3時間で終了した。
2003年6月19日 株主総会、明暗二分 日産は役員報酬3割増、NECは無配を陳謝/朝日新聞から

そして、2004年、ゴーン被告は外国人経営者として初めて、公共の利益に寄与した人に贈られる藍綬褒章を受章しました。その時、ゴーン被告は「私が、日本社会と日本の自動車産業の一部になったと実感している」とコメントを発表していました。

「ゴーンマジック」「奇跡の復活」とたたえられるカリスマ経営者。16年後、衝撃的な国外逃亡をするとは、誰も想像もしない「絶頂期」の姿でした。

外国人の企業経営者としては初の藍綬褒章。「私が、日本社会と日本の自動車産業の一部になったと実感している」とコメントを発表した。日産自動車に乗り込んで来るときには、「コストカッター」と警戒された。系列取引を見直し部品や鋼材の価格を引き下げた手腕は、「ゴーンショック」とも言われた。だが、もたらしたものはショックだけではなかった。経営目標を具体的に数字で示し、達成できなければ辞めると「約束」。自らを追い込むとともに、社員の意識を変えた。自動車メーカーでは唯一のベースアップで報いた。16歳でレバノンからフランスへ渡り、技術系で最高峰の国立理工科学校を卒業。「経営は実戦で学ぶもの。経営者は経験の中で育つ」がモットー。50歳。
2004年4月28日/春の褒章、869人8団体に/朝日新聞から

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