連載
#40 #となりの外国人
「後悔とかはない」海を越えて生きる友達が教えてくれたこと
「こうでなければ」という期待にこたえようとして、生きづらさを感じている女性たちに届けたい、小さなお話です
街なかや職場で、外国人と隣り合うことは、もう珍しいことではなくなっています。そう、病院でも。1年前、病室で私の隣のベッドにいた女性は、日本で結婚し、子育てや仕事をして生きてきた、“同学年”の韓国人でした。日本に来た決断を後悔しないと言う彼女とつきあいながら、気がつくと自分も、国を越えて人生を切り開くのも選択肢の一つと、ポジティブに考えるようになっていました。日本の社会、そして自分の中の「こうでなければ」という期待にこたえようとして生きづらさを感じている女性たちに届けたい、小さなお話です。
昨年10月、私は都内の病院に簡単な手術で入院していた。2日目の夜、廊下から突然、「もうここにはいられないです。怖い怖い」という大声が聞こえてきた。ふらふらと見にいくと、看護師たちが「でも、手術したばかりで血栓が飛ぶ可能性もありますよ…」と、入院患者らしい、目がぱっちりした小柄な女性を取り囲んでなだめていた。
「こんなに人がいないところ、怖くて夜中にトイレにも行けないよ」「許可を出しませんよ」「許可が出なくても、私は家に帰ります。誰も私を止められない」。少しだけ韓国語なまりの残る日本語だった。興奮して私の横を通り過ぎようとする彼女を、少しは安心させられればと、とっさに「チョギヨ、ケンチャナヨ?(あの、大丈夫ですか?)」と声をかけると、彼女は立ち止まり、早口の韓国語で一気にまくし立てた。私の困惑顔で韓国語レベルを察した彼女は「なんだ。韓国語、全然だめじゃん」と日本語で言って、笑った。私も笑って、「どうしたんですか?大丈夫?」と聞き直すと、彼女は「怖いでしょ?だってベッド、がら空きでしょう、幽霊病院だよ」とこちらをのぞき込んだ。
たしかに、入院患者を見かけない婦人科病棟だった。たまたまだと説明されたが、ナースステーションから続く2つの大部屋はガラ空き、廊下の突き当たりにある6ベッドの部屋に入院患者が2人だけいて、私たちだった。カーテンをひいていたので気がつかなかったのだ。「あんたが同じ部屋だって分かってたらよかったんだけど…、騒いで、もうタクシーも呼んじゃったから、今さら病院に残るって言えないよね。月曜日にまた来るね」と彼女は言い、着替えて病室を出ていった。
私も内心怖いと思っていたが、「帰る」という選択肢は思いつかなかった。1人だった土日の夜は、本当に怖い思いをした。開け放された大部屋の暗がりに、誰もいないベッドがぼんやり白く浮かび上がるのを見ないようにしてトイレに行き、眠れなくて明け方まで音楽をかけていた。少し恨めしく思いながらも、規則に慣らされた身には「誰も私を止められない」という捨て台詞が、痛快に思えた。危険だから絶対に真似したくないけど。
これまで、いろいろな性格の日本人や、韓国や他の国の知人もいたが、彼女は特別に独立心が強いように見えた。
彼女は月曜日の朝、36時間ぶりに、フルメイクで病院に戻ってきた。そして、地味な入院着に着替えると、怖さからの寝不足でぼんやりしている私に、ひと抱えもある特大のタッパーをくれた。「家でやることないからチャンジョリム、作ってきたよ」
それは、ゼラチン質たっぷりの牛のかたまり肉を、醬油や香味野菜で煮込んだ料理。驚くほどおいしく、病院食は一気に豪華ランチになった。あれだけ大騒ぎして帰って料理かいと思ったが、開腹手術からわずか3日後に、一人でスーパーに買い出しに行き、大量の料理を仕込んでくる根性に驚かされた。
お礼に缶コーヒーを買っておしゃべりに誘った。まず仕事を聞かれ、新聞記者だと言うと「あー分かる。そんな顔してる。男を、いい悪い判断しちゃうタイプだ」。不意を突かれて(思い当たる節もあり)、私は思わず頭を垂れた。そんな、人を見る彼女の仕事はクラブのホステスだった。彼女、サンミと私は、入院中のいい話し相手になった。
退院の前日、私たちはナースステーションの外出届けに「コンビニ」と書いて、病院の外にある、雰囲気の良さそうな喫茶店に向かった。サンミの誕生日を祝うためだ。白い患者用のリストバンドをつけた私たちは、ピンクの入院着に上着をはおり、パジャマの裾をはね上げながら歩いた。数日ぶりの外出、コーヒーもパンケーキも美味しく、そのとき初めて同学年だと分かって一層盛り上がった。「授業をサボって、友だちと抜け出した高校生のときみたい」とサンミがつぶやいた。
話が盛り上がった勢いで、彼女がどうやって日本で過ごしてきたのか、遠慮していたことを聞いてみた。
ソウル出身で食堂や衣料店で働いていた彼女は、約15年前、31歳のときに15日間の観光ビザで日本に来たという。成田空港~上野の運賃とテレホンカード代を払い、上野駅で韓国人の友達と待ち合わせしたときの所持金はたった6000円だった。
日本で結婚して日本で働き、日本で暮らす。最初から「韓国に帰る気持ちはなかった」というが、15日間が過ぎれば、オーバーステイになる。強制送還されれば、しばらくは日本に入国できない。「でも怖いとは思わなかった」。小学校からの友達が、“芸能人ビザ”(正式には興業ビザ)で日本に住んでいたので、自分もやっていけると思ったそうだ。
背中を押したのは、病気の父親が亡くなったことだ。保険に入っていなくて高額の治療費がかかり、貯金を取り崩した。お葬式のお金も必要で、親戚に借金が残ったという。日本語も話せないのに単身、片道切符で結婚しようと日本にやってきた彼女の決意を想像して、胸がつまった。そのころ、同い年の私はと言えば、「負け犬」と自嘲しながら、「真実の愛」とか「理想の結婚」とか、妄想をこじらせていただけだというのに……。
来日してすぐ、彼女は、子ども2人を持つ男性と結婚し、日本の配偶者ビザを手にした。最初に結婚相手として紹介された人は、家も給料もそろっていたが、やはり踏み切れなかったという。東京のクラブで働き初めて、そこで知り合った男性を好きになって、結婚した。「縁があったんだよね。好きな人と結婚できたのはよかった」という。
彼の仕事を手伝い、子どもたちの大学費用も援助して社会人として送り出した。結婚後5年ほどで永住ビザが出た。10年余りの結婚生活は終わってしまったが、今は別のパートナーがいるという。苦労も多かったはずだが、「自分で決めて、自分で選んで来たんだから。後悔とかはない」ときっぱり言った。
頭の回転が早く、愛嬌もあるサンミは、クラブの仕事でも人気があり、なかなかやり手のようだった。
「きっちりルールを決めているママの店の方が働きやすいね、えこひいきする店は難しいよ」と、知らない世界の話に私も興味津々だ。今は1日5時間労働、手取り1万3千円ぐらいだという。へー!と驚く私に、「でもその条件も、最初の面接でどのぐらいの時給を引き出せるかによるんだよ。ママに『この子はお客を呼べるな』って思われないといけない。かわいい服もきるし、メイクも絶対手を抜かない。スーパーに買い物に行くときも絶対メイクするよ、誰に会うか分からないじゃない。クラブの同僚の女の子たちに人気なのは、シャネルかエルメスだね。私は、だいたい2年で服を替えるよ、すぐ捨てるから」。
私は思わず、自分が入院着の上に着ていたTシャツに目をやった。元紺色だったものが10年以上着て、色あせている。
「サンミ、これだと時給は……」
「あ。ホステス無理」とサンミがばっさり言って、私たちはゲラゲラ笑った。
こんなに日本語が上手で、冗談ばっかり言って人を笑わせるサンミが、日本人の友だちがいないというのはもう一つの驚きだった。15年もの間、日本で暮らしていても、身近な韓国コミュニティーだけで完結していたのだろうか。
病院に戻る道、「日本人の友だちができたよ、今度一緒にご飯食べようといったよ」と、サンミが携帯でパートナーに話していた。
退院してから、サンミは何度か私の家の夕食会に来た。お互いの家がバスで4駅という近さだったこともよかった。毎回、ヤンニョムケジャン(カニの薬味だれ漬け)や、タコの炒めものなど韓国料理を大量に作ってきてくれた。
私の友人が手作りキムチを作ってきたときには、「なーにー、日本人がキムチなんか作ったの?美味しいわけないじゃん、キムチなめんなよ」と一口ほおばって、「おいしい!」と目を丸くしてみせ、場を湧かせた。
私が調子を落としているようなときは、いつも励ましてくれた。メールに返信しないと「京子、返信しないと、もう消えちゃうよ!」とストレートに催促があるのであわてて返信したりもした。
春、サンミから、パートナーを病気で亡くしたと連絡があった。次に会ったとき、彼女は元気に振る舞い「前を向かないとダメだから。辛そうな顔をするのは好きじゃない」と言っていた。
この夏、底が抜けたように日韓を巡るニュースは暗くなり、目を疑うような嫌韓言説を毎日のように目にした。サンミはどうしているかなと思いつつ、仕事のイベントや家のことに追われて3カ月ほど、連絡していなかった。
10月、同じ病院での定期検査に行き、あの喫茶店を見て、思わずメールを打っていた。「サンミ、1年たったね。お茶しない」。
彼女の家の近くのサンマルクに到着すると、真っ白な上下のパンツスーツに、完璧にメイクアップしたサンミがもう座っていた。出勤前の短い時間だ。すでにアイスコーヒーが2つ机の上に並び、2人で食べることになっているらしいパフェが(しかも少し食べかけで)置いてあった。「京子もアイスコーヒーを飲みたいと思ったから」。
この温かさ具合が、私がサンミに惹かれる理由だ。距離を詰めるまでに時間がかからず、まっすぐに入ってきて、面倒だけどひきずらない。
「サンミ、なんか日本、大丈夫だった?」と私は、今夏、一部に吹き荒れた嫌韓の嵐を思い出しながら尋ねた。「え?ああ、あんまりテレビとか見てないよ、イヤだから」
「日本てこんな社会だったのかなあ……イヤになっちゃった」
「なんでよ、京子、独裁国家に比べたらマシじゃん」
「いや、鬱になりそうだよ」
「韓国もひどいよ」
「韓国のフェミニズム面白いじゃん、『82年生まれ、キム・ジヨン』読んだ?」
私たちはお互い、自分の国の残念なところを説明しあった。私はいつの間にかサンミに、胸によぎる「日本脱出」妄想を話していた。
「海外で働くには寿司職人か介護士か看護師になるか、あとは結婚ビザぐらいみたいなんだよ。あ~、北欧の人と恋に落ちて結婚できればな~」
私は働くシングルマザーで、いろいろな面で“伝統的な”日本の家族像からは縁遠い。親子ともども同調圧力と規則に慣らされるような現在の教育政策、公教育には違和感を覚える。身近な女性軽視はいまだにあるし、ジェンダーギャップは改善するどころか悪化している。私は気晴らしに、日本を出る妄想をすることもあった。移住のハードルはビザで、働くためには特定の資格を取るか、あとは……結婚の配偶者ビザはどの国でも強いことを初めて知った。自分でも驚いたことに、気がついたら、サンミと同じ思考回路を辿っているのだった。
もし、民主主義や市民社会が発展している国で暮らせれば、自分ももっと気楽に生きられるんじゃないだろうか。そう考えることは、私がうっすらと想像していたようにネガティブな気分ではなく、新しい冒険のような気分だった。
ふいに私は、外国人実習生の取材で聞いた話を思い出した。神戸大学大学院国際協力研究科・斉藤善久准教授は言っていた。「日本は賃金がよくて、高度な技術があるから来るんだろうと思っている人がいるけれど、実際はそうでもなくて、賃金だけ見たら他にも良い国はある。中国やベトナムには日本を超える最先端の技術もたくさんあるし、技能実習生が日本でまかされるものはそもそも最先端の仕事ではない。ただ、それでも来るというのは、日本人は『礼儀正しくて親切で勤勉で、ルールを守る』、そんな日本人と一緒に生活して、一緒に働きながら、言葉や生活とか、ものの考え方を学べたら成長できるだろうなあ、楽しいだろうなあと思って、若者たちは日本に来る。ベトナム人は、お金のためだけに日本に来るんじゃないんです。民主主義の発達した日本で、日本人と働けたら、どれだけ自分が成長するだろうって、希望を持ってやってくるんです」
サンミとお互いが最近みた韓国映画の『共犯者』や『タクシードライバー』の話や、この3カ月の近況報告などをしているとすぐに、時間が来た。私たちは店を出ると、薄暮の交差点でハグし合った。誰も、私たちが病院友だちの日本人と韓国人だとは、思いもしないだろう。私たちは「日本人代表」や「平均的韓国人」なんかじゃないから、日韓の雰囲気が悪くなっても大丈夫。誰にも似ていないサンミに出会えた偶然に感謝しながら、私は子どものお迎えに、サンミは夜の街へ。私は「となりの外国人」に今日も励まされている。
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