話題
日本軍に抵抗してひげ伸ばす、伝説の京劇俳優「梅蘭芳」が残したもの
中国では最も有名な京劇俳優、梅蘭芳(メイ・ランファン=1894年~1961年)を知っていますか? 関東大震災の時には慰霊の来日公演をし収益を全額寄付する一方、自国を占領した日本軍には役者生命をかけて抵抗しました。10月、上海戯曲芸術センター主催の「梅蘭芳訪日100周年記念公演」で来日した中国の京劇俳優たちの言葉から、梅蘭芳が教えてくれたことを考えます。
1894年に北京で生まれた梅蘭芳は、祖父・梅巧玲(メイ・チアオリン)が清の同治帝・光緒帝の時代に、京劇を形作った13人の重要な立役者の1人で、伯父・梅雨田(ユーテン)、父・梅竹芬(ツウフン)も京劇の役者という一家に生まれました。
一方、梅蘭芳が生まれる前に祖父はおらず、父親は4歳の時に亡くなるなど、役者としての道は決して平坦(へいたん)ではありませんでした。
8歳で入門すると、10歳の時に女形として初舞台を踏みます。役を作るために、毎日5時に起床して練習を重ね、夜はセリフを暗唱しなければなりません。目力を養うために、ハトを飼育し、毎日ハトの飛ぶ姿を30分眺めることにより、いきいきとした輝く目を「作った」と言われています。努力の重ねで実力も認められ、名女形として一世を風靡(ふうび)しました。
中国では「梅、尚、程、荀」の「四大名旦(「旦」は女形の意)」流派がありますが、梅蘭芳は「梅派」(めいぱい)の創始者で、「四大名旦」のトップを極めた実力者でした。梅派は息子の梅葆玖(バオジウ)、さらに孫弟子たちに伝承していきます。
梅蘭芳には、「改革」という言葉がついてまわります。
1910年代に、京劇の特徴である歌舞と、新たにデザインした古雅な衣裳を織り交ぜて、「古代の服を着るが、芝居としては新しい」ことを意味する「古装新戯」というジャンルを打ち立てました。
現在の京劇界を代表する役者である尚長栄(サン・チャンロン)さんは、10歳の時に見た梅蘭芳の「貴妃酔酒」から受けた感動と衝撃を今も忘れていないと言います。
「梅蘭芳の芸術に対する学識は非常に高く、一つの指の動作、一つの目の動きだけで、劇の人物を演じることができました」
梅蘭芳には、「人徳」に対してのエピソードも多くあります。
劇場の清掃係の意見にも耳を傾けるほどで、温厚な人物だったと伝えられています。
そんな梅蘭芳ですが、日本とも深い関わり合いを持っています。
1919年、25歳の時に日本で初公演を開催。独自のアレンジを加えて「改革」を進めた曲目を披露し、京劇「覇王別姫」「貴妃酔酒」「天女散花」、昆劇の「遊園驚夢」「琴挑」などが大好評を得ました。
関東大震災後の1924年にも復興事業として、再び劇団を率いて来日。歌舞伎俳優とともに15回の舞台をこなし、大阪でも5回の公演を行いました。収益はすべて日本の被災地に寄付しています。
日本での知名度が上がった梅蘭芳を襲ったのが戦争です。
1937年8月、上海を占領した日本軍は梅蘭芳に「皇道楽土」を宣伝させようとしますが、梅蘭芳はそれを拒み、夜のうちに家族を連れて香港に移りました。
1941年12月には、香港も日本軍に占領されると、梅蘭芳は上海に戻り、ひげを伸ばします。
名女形の梅蘭芳は、ひげを伸ばすと舞台に上がれません。国民的な俳優だった梅蘭芳は、自ら役者人生を絶つことを決断したのです。
それでも、軍は執拗に梅蘭芳を舞台に上がらせようとしたが、梅蘭芳はチフスのワクチンを自ら注射し40度以上の熱を出してまで出演を断念させたと伝わっています。
戦争中は軍部に抵抗した梅蘭芳ですが、関東大震災の時には興行の利益をすべて寄付するほど、日本には親しみを感じていました。
そんな梅蘭芳に、戦後、再び来日の機会が訪れます。
1956年、62歳になった梅蘭芳は、日中友好のため3度目の訪日公演を行いました。53日間で32回の公演を果たし、再び梅蘭芳ブームを巻き起こします。
早稲田大学の平林宣和(のりかず)教授によると、「3度目の訪日公演は、ちょうどテレビ放送が始まった時代。梅蘭芳の舞台が生中継されただけでなく、その後くりかえし放送されたこともあって、当時の日本人にあらためて梅蘭芳の名を印象づけました」と言います。
10歳の時、梅蘭芳の舞台に感動した尚長栄さんは、今、中国の京劇を引っ張るベテランです。今回、梅蘭芳初訪日100周年を記念し、上海戯曲芸術センター主催で、ムーランプロモーションが運営した記念公演に合わせ、10月に来日しました。
「現在の中国の芸能界では、多くの誘惑があります。名声はもちろん、金銭的な利益や誘惑が多すぎます。だから、現在の若手俳優によく言うのは、『耐得住寂寞』(さびしさに耐えること)と『知足』(満足を感じること)です」
そう語る尚長栄さんの心ににあるのは梅蘭芳の存在です。
「戦争中、梅蘭芳は日本軍という巨大な組織、占領者を相手に、自由に歌うことができなかった。そして彼はひげを伸ばし、抵抗をした」
梅蘭芳の孫弟子で、10月の記念公演で主役をつとめた京劇俳優の田慧(ティエン・ホエ)さんは「彼の決断は、多くの役者の手本になったはずです。私は梅派に入門し、京劇の演技、テクニックなどももちろん多く勉強しましたが、梅先生の精神に多く教わりました」
平林教授は、梅蘭芳が日本の歌舞伎にも影響を与えていると指摘します。
「梅蘭芳の56年の訪日公演は、前年に二代目市川猿之助が北京公演を果たしたお返しでもありました。京劇と歌舞伎は1919年の初来日公演以来長い交流を重ね、梅蘭芳は多くの歌舞伎俳優と深い友情を結びました」
また、坂東玉三郎さんは祖父が共演した梅蘭芳に強いあこがれを持ち、自ら主演した歌舞伎『玄宗と楊貴妃』の創作の際に、梅蘭芳の息子の梅葆玖からも指南を受けています。
芸術に対しては、改革者の精神でよりよいものを求め、戦争に対しては毅然(きぜん)とした態度を貫いた梅蘭芳。
何かを成し遂げるためには強い信念と「芯」を持たなければならない。梅蘭芳の生き方は、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
1/18枚