地元
相次ぐ犠牲者「念佛埼」呼ばわり……美しすぎる灯台の「不幸な」歴史
関門海峡に、「日本遺産」に指定されている灯台が立っています。歴史を感じる外観の灯台ですが、建設の背景には海難事故が多発する難所という「不幸すぎる」歴史がありました。犠牲者の多さから「念佛埼」と呼ばれたことも。住民たちの手で整備が進む「美しすぎる灯台」の歴史をたどります。(朝日新聞下関支局記者・山田菜の花)
草刈り機で草を刈ったり、伸び放題のかずらを両手で巻き取ったり。じりじりと焼け付く日差しの中、10人ほどが黙々と作業する。8月中旬、北九州市門司区の部埼(へさき)灯台。敷地を毎月1回清掃するボランティア団体「美しい部埼灯台を守る会」の活動だ。
部埼灯台は1872(明治5)年に点灯した、九州で最も古い洋式灯台だ。設計は英国人のブラントン。石造りのどっしりした外観で、関門海峡を見下ろす高台に建ち、海の道「関門航路」の東でS字に曲がる海域の入り口を示す。西の入り口を示す71年に設置された六連島(むつれしま)灯台(山口県下関市)とともに、幕末に開国した際、九州から神戸へ瀬戸内海を安全に航行できるよう、英国から設置を求められたものだ。いずれも日本の近代化の足跡を示す建造物として日本遺産に指定されている。
実は部埼灯台付近の関門海峡は、かつて「念佛(ねんぶつ)埼」などと呼ばれるほど暗礁が多かった場所。江戸時代に大分県出身の僧・清虚(せいきょ)が、亡くなるまでの13年間、海難を防ごうと航行する船のために毎日火をたき続けたという歴史がある。
市内に住む大迫秀八郎さん(81)は、家族や友人たちと折に触れて部埼灯台へピクニックに訪れていた。港湾運送会社に勤めていた大迫さんは、船にとってこの地と灯台がいかに大切かをよく知っていた。
それなのに、1968年に灯台守がいなくなってからは、いつも草木が茂って荒れ放題。高台にあるので道路からは見えず、知る人も少ない。部埼灯台の歴史が埋もれてゆくのがもったいないと思っていた。
仕事でお世話になっている海に恩返しをしようと、海岸清掃などのボランティアを続けていた大迫さん。2005年、会合で会った第7管区海上保安本部の幹部に、思い切って部埼灯台の現状を訴えた。
聞けば、草刈りの予算があまりないのだという。だったら市民が動けばいい。この年の8月、市民と灯台を管理する門司海上保安部などの有志で「美しい部埼灯台を守る会」を立ち上げた。メンバーは17人。大迫さんが会長に就いた。一帯のやぶを切り開き、メンバーの一人が育てたアジサイやツツジなど20種以上の苗を植えて、四季の花を楽しめるようにした。
理髪師の沖田妙子さん(70)は、門司海保が入る門司港湾合同庁舎(同区)の地下で理髪店を営んでいるのが縁で、メンバーになった。山口県美祢市に生まれ、部埼灯台のことは入会するまで知らなかった。
会が発足して間もない05年秋、草木を切ってパッと関門海峡を見下ろしたら、下関市の満珠(まんじゅ)島と干珠(かんじゅ)島がよく見えた。この感激を「美しき部埼灯台」という詩にした。理髪店の常連に、当時の門司区長でバンド活動をしていた藤本秀明さん(73)がいた。作曲を頼むと、2カ月ほどかけて哀愁を帯びたフォーク調の美しいメロディーをつけてくれた。
♪満珠干珠の島照らす海の安全祈りつつあゝ美しき部埼灯台
今年8月中旬、藤本さんは沖田さんの店にギターを持ち込み、散髪客らに歌を披露した。大迫さんから会長を引き継いだ永木三茂さん(73)も駆けつけ、一緒に歌った。
大迫さんは2年ほど前に病を得て、ボランティアができなくなった。「暑かったり寒かったりする中で、ゴミを拾ったり草を刈ったりするのは決して楽しいことではない。それでも同志が、活動に自分なりの楽しみを見いだして続けてくれているのがありがたい」
来る日も来る日もかがり火をともし続けた清虚の死後は村人たちが志を継ぎ、火を絶やさなかった。紺碧の海に映える真っ白な部埼灯台もまた、その歴史と輝きが守り継がれている。
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