地元
関門海峡の「地下」こんなスポットが! 「人道」の数奇な運命
関門海峡に、無料で楽しめる人気スポットあります。車ではなく人が通る「人道」です。戦前から始まった工事は、戦争で中断。戦後も弱い地盤に工事は難航を極めました。開通当初は行列ができた観光地「人道」ですが、今はランニング場所としても親しまれています。60年前の工事に関わった技術者の話から、数奇な「人道」の歴史をたどります。(朝日新聞下関支局記者・山田菜の花)
山口県下関市の日吉正勝さん(69)は最近、下関と北九州市門司区を結ぶ関門トンネル人道をウォーキングするようになった。この春に退職し、体がなまるのが怖くて4月から自宅周辺をウォーキングしていた。人道なら日差しも風雨も気にせず歩けるのがいい。
エレベーターで地下に下り、片道780メートルを1往復半。県境が引かれた中央部が最も低く、緩い傾斜を上り下りしていると、ふと61年前のほろ苦い記憶がよみがえることがある。
関門トンネルは1958年3月10日に開通した。丸く堀抜かれたトンネルの上部は片側1車線の車道で、その下部に人道が設けられた。日吉さんは下関市内の小学2年生だった。同県防府市から来た年上のいとこに人道へ連れて行ってもらった。
現在の人道は無料で歩けるが、72年までは大人10円、子ども5円の通行料が要った。それでも入り口には長蛇の列ができていた。
「並んでいるなあ」。いとこはそんなことをつぶやきながら、行列の最後尾から前の方へゆっくり歩を進めた。日吉さんも後に続いた。するといとこは日吉さんを連れてスッと割り込んだ。驚いた日吉さんはいとこの顔を見上げた。涼しい顔をしていた。「周りの人からは文句を言われなかったけど、悪いことをしたんかなと。子ども心に気まずかった」。人道自体の記憶はおぼろだ。「幼かったし、あんまり人が多すぎてよく分からなかった」
その人道で、いまは健康づくりに励んでいる。「一人じゃ寂しそうだから」と週に3日は妻の洋子さん(62)も歩くようになった。ときには手をつなぐ。「こんな風に人道で過ごす日が来るとはね」
開通した瞬間の10日午前0時にバスツアーでトンネルを通過したのは、下関市の原宇信(いえのぶ)さん(77)だ。父親の常吉さんがバス会社に勤めていた縁で、祖父や弟と参加した。「一番乗り海底号」と表示されたバスに乗り込み、下関側のトンネル入り口で日付が変わる瞬間を待った。帰りは、人道で門司から下関へ。「一番乗りできて本当に感激しました」
下関市の坤徳(こんとく)正剛さん(73)も開通当時、人道を渡った。頭上をゴーッと車の通過音がした。
「息はできるか、トンネルがつぶれないか、恐ろしくて無我夢中で門司をめざした」
ところが県境の中央線にさしかかるとそんな緊張も飛んでいった。うれしくて県境を何度も往復した。地上に出て改めて関門海峡を眺めた。「この海の下にあんなすごいトンネルの工事が行われていたんだ」。小遣いの10円は人道の通行料で消えたが、それだけの価値があると思えた。
「当時のことを語り合える人は、ほとんどいなくなったなあ」。福岡市南区に住む川崎迪一(みちかず)さん(91)は感慨深げに話す。
関門国道トンネル事業は戦前の37年に計画された。しかし42年に開通した鉄道トンネルに比べ、工事は遅々として進まなかった。太平洋戦争で中断した上、地盤の弱い下関側の工事が特に困難を極めた。
川崎さんは旧建設省の職員として、工事が本格的に再開した52年から下関側で換気用の立て坑などの設計に携わった。石炭の採掘なら悪い地盤を避けられるが、トンネルは逃げるわけにはいかない。立て坑とトンネルをどうつなげるか、どんな機械を使うか――。前例がなく、不安と闘いながらの作業だった。
川崎さんが編集人を務めた「関門国道トンネル建設の歴史」によると、21年に及ぶ工事に携わったのは延べ約467万人。トンネル技術の黎明期で、落盤事故などのために55人が殉職(じゅんしょく)した。川崎さんは家族と関門トンネルを通るたび、犠牲者の慰霊碑を訪れてきた。「当時としてはできることを精いっぱいやった。いまの技術だったら違ったでしょう」。川崎さんは口元を引き結んだ。
開通当時、関門トンネルを通る車は1日平均で1500台ほどだった。それが2016年には20倍の約3万台に。人道は観光スポットとしてだけでなく、ウォーキングやランニングの場所としても地元に親しまれ、1日に平均で約1500人が利用する。両市の往来を支える関門トンネルを担当できたことは、川崎さんの誇りだ。
関門海峡には別のトンネルもある。国道トンネルの事業に先立ち39年に掘られた試掘トンネルだ。一般公開はされておらず、いまは関門トンネルの地下水を抜くために使われている。高さは1.7メートルほど。人がようやくすれ違えるほど狭い。こんな小さなトンネルから工事が始まった関門トンネルという一大事業。時代とともに役割を変えながら、これからも両岸をつなぎ続けていくのだろう。
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