話題
あの夜、故郷で日本軍は何をした? 職を捨てて追う「マレー作戦」
真珠湾攻撃の1時間前、日本軍が攻め込んだマレーシアで何が起きていたのか。「パールハーバー」に比べれば知られていない「マレー作戦」の歴史を、戦闘のあった故郷でたった1人で追い続けるマレーシア人がいます。「趣味」だった歴史のために、銀行員の仕事まで捨ててしまいました。なぜそこまで? 現地で聞いたのは「教科書を読んだだけで戦争なんてしちゃいけない、と本当に思えますか?」という重い問いでした。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
日本軍が上陸したのは、マレー半島東北海岸のコタバル。現地の時間で1941年12月8日午前1時過ぎでした。
当時、アメリカやイギリスなどによる「ABCD包囲網」により、石油などの物資が入らなくなっていた日本は、東南アジアを制圧することで資源確保をしようとしていました。
イギリスの植民地だったマレーシアですが、日本軍は50日あまりでマレーシアを占領。1942年2月にはシンガポールも占領しました。
「地元の人も、パールハーバーは知っていても自分たちの故郷で何があったか、知らない」と、旅行ガイド業のザフラニ・アルフィンさん(47)は話します。
コタバルで生まれ育ったザフラニさんは、日本軍の上陸作戦についても、学校で学んだ記憶があります。
「ただ、『歴史上の出来事』として教師から語られただけ。何があったのか、地元の人が何を思ったのか、説明してもらえなかった」といいます。
そんなザフラニさんが、歴史について「おかしいぞ」と思ったのは、高校生の頃でした。
図書館でたまたま見かけたコタバルの歴史が書かれた本でした。「トーチカ内で、インド人兵士は鎖につながれていた」
トーチカ(ピルボックス)とは、中から銃撃するためにつくられたコンクリート製の小さな建物で、敵の急襲に備え、イギリス軍が海岸沿いにたくさん準備していました。
当時、イギリスの植民地下だったインドの人たちも、イギリス軍と協力し、日本軍と戦っていたはず。
「なぜイギリス軍の陣地でインド兵が鎖につながれていたんだ?」
どうしても疑問をすっきりさせたくて、いろいろな本を調べると、少しずつ分かってきました。
「イギリスからの独立を目指していたインドの兵士たちは、イギリスに反抗心を持つ人もいて、イギリス軍はそれを押さえ込んでいた」
おそらく、逃げたり裏切ったりすることを恐れたイギリス軍がインド兵を拘束した……。
歴史の裏側を見た気がして、さらに興味がわいたザフラニさんは、大学生になってからも手に入る資料をあさり始めました。
学校では、「日本軍の急襲でイギリス軍の多くが犠牲になり、地元のマレー人や華僑も苦しい生活を強いられた」としか教わっていませんでした。
日本軍の兵士の手記を翻訳してもらい、地元の人に話を聴いて回るようになりました。
自分で日本軍が上陸した海岸を歩いて砂を掘り返し、当時の銃弾やさびついた機関銃を拾い集めました。
「証拠や事実を集めれば、歴史が教科書の中の『出来事』でないことがわかった」といいます。
20年以上にわたり集めてきた情報で、ザフラニさんは当時の様子を語ってくれました。
「深夜のコタバル海岸には、日本軍の船で3隊に分かれ、5千人を超える兵士たちが一気に上陸しようとしました」
「海岸にはイギリス軍が鉄条網のフェンスをつくっていましたが、日本軍の兵士たちは砂を掘って潜り込もうとしました」
「ただ、砂の中には地雷が埋められており、あちこちで爆発が起き、多くの兵士が犠牲になりました」
コタバルにある博物館には、当時の様子を描いた絵も展示されています。
「地元の人の話や資料をもとに私が監修して描いてもらいました」
「当時の事を知っている人が、近くに住んでいます。会いにいきませんか」
ザフラニさんに誘われ、海岸から車で10分ほど離れた一軒家に住むオマール・ビンセニックさんを訪ねました。
御年92歳。車いすで、少し苦しそうに息をしています。
「最近、ぜんそくの症状が出て長くは話せないんです」とザフラニさん。
それでも、当時の事を少しずつ思い出してくれました。
「夜、インド兵士たちと夕食を食べて、音楽に合わせて踊っていたんだ」
「すると、ゴゴゴゴゴ、タンタンタンタンという音が突然聞こえてきた」
日本軍上陸の瞬間です。
「慌てて砂を掘ってそこに潜り込んだ。背中のすぐ上を銃弾が飛び越えていくような感覚があって、もうダメかと思った」
結局一晩を砂の中で過ごしたオマールさんは近くの家に逃げ込み、何とか命を取り留めました。
日本の占領後は、日本兵とも交流したといいます。突然、歌を歌い始めました。
「これは、日本兵に教えてもらったんだ」といいます。
「私は特に日本兵からひどいことをされた記憶はない。ただ、イギリス兵を処刑したり、現地の人に女性を差し出すように求めた日本兵もいた」
オマールさんは、「日本に強い恨みを抱いているわけではない。ただ、戦争はいけない。みんながつらい思いをする」
「3年前はオマールさんももっとたくさん話していた。段々、当時を知る人の証言が減っていってしまう」とザフラニさんは眉をしかめて話しました。
「海岸に行ってみませんか」とザフラニさんに言われました。
まさに日本軍が上陸した海岸に立つと、背筋がぞわっとするような感覚になりました。
78年前、この場所で殺し合いが起き、多くの人が亡くなった。何も知らなければ単なる静かなビーチだな、としか思えないでしょう。
人もおらず、白い砂だけが続く砂浜が、まったく違ったものに見えた気がしました。
「もう一カ所、連れていきたい場所があります」海岸沿いを車で約20分走り、森に入りました。
「ここです」とザフラニさんが指し示す場所には、直径5メートルほど、土がえぐられたような穴がありました。
「日本の爆撃機が爆弾を落とした場所です」
すぐには信じられませんでした。80年近く前の爆撃跡が今も残っているなんて。
「この場所はずっと誰にも手をつけられず残されてきました。だから、今でもこうやって当時残されたものを確認できるんです」
穴の中心部からは10メートル以上成長した木がそびえ、過ぎた時間を示していました。
そして、案内されたのは、コタバル中心部から約35キロ南に下ったマチャンという小さな町です。
小学校の隅に、日本語が書かれた石碑が建てられていました
「戦跡記念碑」と書かれています。日本軍がこの場所を占領したとき、犠牲になった人たちのためにつくったといいます。
「地元の人は日本、当時の日本軍にどんな感情を持っているんですか」ときいてみました。
「いろいろです。特に中華系の人は恨みを持っている人もいる。ただ、住民に憎しみしかないのなら、日本語の石碑なんてとっくに壊されているんじゃないでしょうか」
ザフラニさんはどう思っているのだろう。
「誰が悪いとか責任があるということを議論する気はないです。何があったのかを証拠や証言に基づいて残すことが、私の役目です」
ずっと歴史を追い続けてきたザフラニさんですが、昨年、20年働き続けた銀行員を辞めました。
「仕事の合間にやるには歴史は重すぎる。ここで決心して一生をつぎ込もうと思った」
収入は半分以下に。「独身だからなんとかやっていけています」と笑います。
だが、彼1人がそこまでしなければいけないんでしょうか。
「オマールさんが話せなくなったら、誰があの経験を次の世代に伝えていくのでしょう」とアリフィンさんは言います。
「森の中にまだ爆撃跡が残っているのも、貴重と言えば貴重だが、それだけ誰も興味を持っていないということ。地元で何があったかおざなりにされているのは、かなしくてたまりません」
コタバルは観光地でもなく、数少ない欧米人の観光客も、戦跡を見にいくことはほとんどないと思います。
「教科書を読んだだけで戦争なんてしちゃいけない、と本当に思えますか。実際に戦場になった場所の土を踏んだり、弾丸を見たりするから、現実的に感じられると信じている」
ザフラニさんは、マレーシアの首都クアラルンプールにいる仲間らと歴史同好会をつくり、マレー半島であったことを伝え続けています。
この会で代表を務めるシャハロン・アフマドさんは、「ザフラニのような人がいるから、戦争の姿が伝えられていく」と話します。
会には、「日本人がたくさんのマレー人を殺した」といった意見が多く寄せられると言います。
シャハロンさんは、「私たちは必ず、『どういう証拠や事実に基づいているのですか』ときいています。これは日本を擁護するためではない。ファクトに基づいた歴史を残すためです」
ザフラニさんたちは若い人たちに歴史を伝えるとき、日本軍の軍服を着て説明することもあるといいます。
「中華系の人たちから『不謹慎だ』と批判されることもある。でも、私は真剣だ。歴史を感じて、わかってもらうためにどうすればいいか、必死で考えている」
ザフラニさんは一緒にいた3日間、止まることなく歴史についてしゃべり続けていました。
そこには、単なる興味や使命感を超えた、ものすごい熱を感じました。
「是非、日本の人にもコタバルを訪れてほしい。そして80年前に起きたことに思いをはせてほしい。国を超えてみんなで伝えていくことが、歴史だと思う」
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