連載
#1 遁走寺の辻坊主
頑張れない自分は「負け組」ですか? 坊主となった辻仁成が答えます
作家の辻仁成さんがお坊さんとなって10代の悩みに答える「遁走寺(とんそうじ)の辻坊主」。女子高生が打ち明けた「親も先生も頑張れっていうんだけど、頑張れないんです」という相談に、辻坊主が授けた教えとは?
わしがここの住職、辻坊主である。
この都会の小さな貧しい寺の名前は遁走寺という。
遁走とは「逃げだすこと」だが、それでか、いつのころからか逃げ出したい子供たちがよく訪れるようになった。
あそこに行くと話を聞いてくれるという噂が広まったらしい。
話を聞くだけで、とくに立派なことが言えるわけじゃない。
暇なので、話し相手にちょうどいいのかもしれんね。
わしは御覧のとおり、昼間から寝転がってぐうたらしているのでこの辺の大人たちからは変わり者の生臭坊主と後ろ指さされておる。
御覧の通り、ここはビルに囲まれたつぶれかかった寺なので、檀家もほとんどいなければ、仕事もほとんどない。
わしは猫の百地三太夫(ももちさんだゆう)と暮らしている。
三太夫の猫語が理解できるおかげでわしは退屈せずにすんでおる。
さて、いつものように三太夫と濡れ縁で午睡しておると、
「辻坊主」
と声がしたので、薄目をあけてみると、かわいらしい女子高生が立っておった。
わしは半身を起こし、どうした、と訊き返した。
「ここに来たら、辻坊主が話を聞いてくれるというので来ました」
「そうか、よく来たね。で、なんだい、その話とは」
だいたい、誰もがこんな感じでいきなり話しかけてくる。
でも、本当ならば、まず名を名乗るべきだろう。そのことをやんわり指摘すると、
「あ、ごめんなさい。ミノリです。ミノと学校では呼ばれてるけど、どっちでもいいです」
と戻って来た。よしよし。
三太夫が起き上がり、ミノリ君と向き合った。
「かわいいだろう。三太夫という名じゃ」
「太ってますね」
すると三太夫がわしを振り返り、猫語で、けしからん、と呟いた。
もちろん、ミノリ君には、にゃあ、と聞こえただけである。
「何かわしに相談があって来たのかね? そこに座りなさい」
ミノリ君が濡れ縁に腰かけ、寺を囲むビルを見上げた。三太夫が再び寝転がる。
「あの、頑張れないんです。親も先生も頑張れっていうんだけど」
ミノリ君がぼそっと呟いた。
「頑張らないでいいよ」
わしはそう言った。
「でも、頑張れって、言われる」
「誰の人生じゃ?」
え、とミノリ君がわしを振り返った。
「それ、誰の人生じゃね」
「わたしのです」
「じゃあ、人の命令とかきかんでいい。そんな期待、ほっとけ。頑張るな」
あ、とミノリ君がわしをじっと見つめて動かなくなった。わしはつるつるの頭をかいて、にこりと微笑み、
「頑張るもんか、で行け」
と繰り返した。
「頑張るもんか、ですか」
みゃあ、と三太夫が鳴いた。がんばらにゃあ、とわしに同意したのだが、ミノリ君には猫語が理解できない。
「でも、負けるな戦えってパパが言う。もっと頑張りなさい、とママが言うの」
「戦うな、頑張るな、逃げてよし、とわしは言うぞ」
三太夫がにゃあと鳴いた。
「でも……」
「なにがでもだ。戦って苦しむなら、逃げ出していい。勝てとかわしはいわない。自分を大事にしろとだけ言う。自分を大事にしなさい。誰の人生だ?」
するとミノリ君が、わたしの人生、と呟いた。
「無理して戦ってなんになる。誰に勝つ? 何に勝つ? 君は自分の人生を大事に生きることが何よりの使命だ。それは人の期待に応えるために自分を殺すことじゃない。だろ?」
三太夫がにゃあと鳴いた。
「な、そんなに苦しむことじゃない。そこで昼寝していきなさい。寝て起きたらすっとする」
「……ありがとう」
ミノリ君は濡れ縁にごろんと寝転がって昼寝をしはじめた。わしは狭い庭の掃除をしなきゃならなかったので、下駄に足を入れて、竹ぼうきを掴んで庭におりた。最後に掃除をした日が思い出せない。まさに、生臭である。でも、関係ない。
「誰の人生じゃ。誰の人生だよ」
わしはブツブツ、そう呟きながら、落ち葉を払うのだった。
辻仁成(つじ・ひとなり)1959年、東京都生まれ。『海峡の光』(新潮社)で芥川賞、『白仏』(文芸春秋)で仏フェミナ賞外国文学賞。『人生の十か条』(中央公論新社)、『立ち直る力』(光文社)など著書多数。
山田全自動(やまだ・ぜんじどう)1983年、佐賀県生まれ。日常のふとした光景を浮世絵風イラストにしたインスタグラムが人気。著書に『山田全自動でござる』(ぴあ)、『またもや山田全自動でござる』(ぴあ)。
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