話題
明かされた「中国最後の王女」との交流 「こんな身分に……」の意味
偶然、知り合った白髪の女性は、87歳とは思えない元気な姿が印象的でした。今も、ボランティア団体の理事として精力的に活動する女性には、「中国最後の王女」との秘められた交流がありました。日本にも留学経験のある愛新覚羅・顕琦(1918年~2014年)。ラストエンペラーのめいで、川島芳子の妹にあたる人物です。晩年、ふと漏らしたという「こんな身分に生まれるんじゃなかった」という言葉の意味を知るため、女性の家を訪ねました。
東京・目黒区に住む女性の名前は佐々木照子(てるこ)。
昭和36年(1961年)にWHOの善意銀行にボランティア第1号として登録し、その後、半世紀以上にわたり様々なボランティア活動を続けてきました。現在は、ボランティア活動を推進するJAVEの理事、目黒中央ボランティアの会代表などを勤めています。
佐々木さんは1932年生まれの87歳。出身は新潟県です。若い頃、地元の安定所での求人に応募し、保利茂・元衆院議長の家で「女中兼秘書」を務めていたそうです。大臣の自宅で過ごしながら、多くの政治家に間近で接し、政治の表と裏を目の当たりにしてきました。そんな生活の中、清王朝の王女、愛新覚羅・顕琦と接点が生まれます。
愛新覚羅・顕琦さんは清王朝粛親王「善耆」の末娘(第17王女)として、1918年9月に中国旅順で生まれました。漢字名は「金黙玉」(ジン・モユ)。ラストエンペラーの愛新覚羅・溥儀のめいで、そして「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子(第14王女)とは同じ父、同じ母を持つ妹にあたります。
粛親王には王子19人で、王女17人の子どもがいました。末娘の顕琦さんは中国語で「清朝最後の格格」(gege)と呼ばれています。「格格」は満州の言葉で、王女あるいはお嬢さんを意味します。
末娘のため、4歳の時に、両親が亡くなり、異母の姉に育てられたそうです。旅順、長春の高等女学校を経て、女子学習院、日本女子大学に留学しました。
太平洋戦争が勃発した後、顕琦さんが中国へ帰国しました。戦後に中華人民共和国が建国されると、いったん平穏な生活に戻ります。画家の馬万里さんと結婚しますが、1950年代に起きた知識人弾圧の「反右派闘争」で、王女という身分、そして、スパイ川島芳子の妹という立場から逮捕され、強制労働も経験しました。
夫への影響を考え、獄中で離婚もしました。強制労働で体を壊したことから、北京市文史研究館の仕事に移り、晩年は日本語教育に携わりました。
1983年、佐々木さんと、顕琦さんは出会います。日中友好協会第二次東京都派遣団のメンバーとして北京を訪れた佐々木さんが、夕食会の場にいた顕琦さんと会話することになりました。
佐々木さんは、元王族とどんな話をすればいいのか、最初は不安があったと振り返ります。顕琦さんが学生時代に親しかった、小坂旦子(あさこ)さんが、佐々木さんとも親交があったことから、一気に打ち解けたそうです。
「旦子さんの名前を出すと、顕琦さんは大粒の涙を流し、私の手を握りました」。
中国滞在中に、成都市のホテルで再会しました。
「顕琦さんは日本人が恋しくてたまらないご様子でした。日本の様子を次から次へと聞き、尽きることがありませんでした」。
別れた際、頼まれたのは、日本の歴史や文学の本ではなく、週刊誌でした。
「日本の暮らしが見えるので」という思いがあったそうです。
その後、文通が始まります。交流は1983年から1987年まで続きました。
顕琦さんがお願いした週刊誌に関して、1983年4月の手紙には、当局に没収されたものが記されていました。
「『主婦の生活』は没収されました。この前の時も2冊没収されています。ヌードの写真とか、セックスなどに関するものは全くいけません。通知書が入ってきますので、御参考まで」
「スタイルブックとか、お料理ものは大丈夫。小説も」
1987年以降、日本と中国の間に自由に行き来できるようになると、手紙の交流ではなく、実際に会えるようになりました。顕琦さんが来日すると、新大久保などの喫茶店などで会い、話を楽しんだそうです。
会話のなか、佐々木さんが特に印象に残ったのは、顕琦さんが口にした愛新覚羅・溥傑(ふけつ、プージェ)と夫人の嵯峨浩のことです。
「顕琦さんはお二人を最高の夫婦だと言って、うらやましかったと話しました」
そして溥傑さんとラストエンペラーの愛新覚羅・溥儀とも兄弟仲がよかったという話もしていたそうです。
2009年に、顕琦さんが体調を崩すと、佐々木さんが北京を訪ねます。
「部屋には本などが置かれていますが、部屋自体は少し薄暗かった」と佐々木さんが思い出す。
2000年に入り、「最後の王女」に会いたいと希望する人が増え、面会を断ることもある中、佐々木さんには快く会ってくれたそうです。
ある日、顕琦さんはこう漏らしました。
「こんな身分に生まれるんじゃなかった」
それを聞いた佐々木さんは「思わず涙が出るほどでした」と振り返ります。
佐々木さんに、顕琦さんの手紙を見せてもらいました。文面からは日本語をりゅうちょうに使いこなしていたこと。その達筆さにも驚きます。
顕琦さんは自伝『清朝の王女に生まれて―日中のはざまで』(中公新書)を日本語で書き下ろしています。
清王朝の子孫は、文化的な素養が高く、画家や書道家を輩出していることで知られています。2018年4月に、天皇両陛下(現上皇と上皇后)が愛新覚羅一族の書画作品展を鑑賞しています。
一方、中国は革命により、1912年に王朝が滅び、王族という概念が薄くなりました。ただし、清王朝は今も日本と深い縁があります。
ラストエンペラーが建てた満州国は、日本政府の傀儡(かいらい)政権と言われています。
顕琦さんの父親の粛親王も明治維新を高く評価し、清王朝の末期には改革運動を行ったことが記録されています。清王朝が滅亡した後、日本の勢力を借りて、王朝の復古を試みたこともありました。川島芳子(本名は愛新覚羅・顕㺭)は日本人の養女で、顕琦さんの義理の姉には日本人もいます。
歴史にほんろうされた顕琦さんですが、当時の状況では、日本への留学は自然なことでした。中国に帰国した後でも、日本を恋しく思い、日本人の友人を探しました。そして日本の本や雑誌を通して日本の暮らし、日本のことを一生懸命知りたいと思ってた事実が、佐々木さんとの交流からあらためて浮かび上がってきます。
王女という立場への複雑な思いを伝えていた顕琦さん。もし、普通の家庭に生まれていたあら、どんな生活を送ったのでしょうか。
そう想像しながらも、歴史をひもとくと、顕琦さんが生まれた当時の中国は軍閥時代であることに気づかされます。日中戦争の影響を考えると、庶民に生まれ、普通な生活を手に入れること自体が困難だったかもしれないという現実が見えてきます。戦乱の中、庶民でも、王族でも、人々の生活をほんろうする戦争の残酷さが浮かび上がります。
王女として生まれ、多くの苦難を背負った顕琦さんでしたが、佐々木さんの話からは、常に前向きに生きようとする姿が伝わってきたのも事実です。
それは『清朝の王女に生まれて―日中のはざまで』(中公新書)という著書でも繰り返し述べられています。
だからこそ、佐々木さんに打ち明けた「こんな身分に生まれるんじゃなかった」という言葉が、重く響くのだと思います。
最後の王女がなくなったことで歴史の幕がまた一つ閉じました。同時に、そこから私たちが学べることは決して少なくありません。
1/23枚