地元
聖火リレーなのに…元気がない理由、ひび割れた聖火台の数奇な運命
日に日に近づく東京五輪ですが、開会式までのハイライトと言えば聖火リレーです。1964年の東京五輪では、各地の聖火台の写真が残っています。その中の1枚、新潟県の聖火リレーでは県のシンボルとも言える巨大な土器の前に制服姿の生徒たちが並んでいます。しかし、世紀のイベントにしては、どこか浮かない顔です。実は、撮影の直前、新潟は大きな悲劇に襲われていました。東京五輪にまつわる「もう一つの聖火台」の物語を追いました。(地図地理芸人・こばやし)
私、こばやしは、大学で地理学を勉強し、高校社会の教職免許と地図地理検定資格を持っている「地図芸人」として活動しています。
そんな、こばやしの元に、朝日新聞さんから1枚の写真が送られてきました。
そこには聖火台らしき場所に巨大な火焰型土器がある、なんとも不思議な写真。すかさず朝日新聞の担当者さんが話を振ってきます。
「これ新潟県なんだけど、火焰型土器の聖火ってすごいよねー」
「そうですね、こんなのあるんですね」
「まだ新潟の競技場にあるみたいなんですよ!」
「まだあるんですね!すごいですね!」
「すごいですよね!じゃあ、ちょっとこの聖火で記事を1本、よろしく!」
雑です……。
改めてみてみると、火焰型土器の聖火の下に聖火ランナー、そして吹奏楽らしき制服を着た生徒たち、掲げられた五輪マークのある国旗を見れば、五輪に関係しているだろうというのはわかるのですが、どことなく躍動感がないというか……。
気になるのは、やはり火焰型土器聖火です。
これを作ったのはどんな人なのか? 新潟市役所の歴史文化課に聞いたところ、製作者は早川亜美さんだということが判明しました。しかし、残念ながらもう亡くなってしまい、お話を聞くことはできないとのこと。
そして歴史文化課にも、あまり情報は残っていないそうです。
そう言われてしまうと、調べたくなってしまう性格。鈴木亜美世代の30代後半の僕としては、早川亜美さんが勝手にBe Togetherしてきました。まだ見ぬ謎多き人、早川亜美さん。
わかったことは新潟県出身の芸術家で、間瀬銅山跡にアトリエがあること……間瀬銅山跡とは?
再び、歴史文化課に電話をします。
「間瀬銅山跡がアトリエだったみたいなのですが?」
「そうみたいですね。でも私は見たことがないのですが、見に行かれるんですか?」
「いちおう、行こうと思っています」
「それでしたら、ぜひ、行った後に市役所に寄って話を聞かせてください! 写真も撮ってきていただけたら!」
急に前のめりになった歴史文化課……。間瀬銅山跡に何があるのだろうか?
地図を見てみると間瀬銅山跡は新潟県の真ん中あたり、新潟市から南に行った日本海側の山の中にありました。
地図を見て真っ先に感じたのは「こんな場所どうやって行ったらいいんだろう……」。
ひとまず最寄り駅である、越後線岩室駅の岩室温泉観光協会に、間瀬銅山跡の事を尋ねてみると「私たちもあまり詳しくないので、詳しい方の電話番号を教えますのでそちらへ」。
最寄り駅の観光協会も知らないの!? てか何か知ってはいけない秘密を知ろうとしちゃっているの? どうして? とワクワクしながら教えてもらった方へ電話をします。
わかったことは「バスは2時間に1本も走ってないし、バス停からも相当歩くこと」。そして「アトリエの跡はほとんど残っていないこと」。
あまりに無邪気な私を見かねて、「しょうがない、私が連れて行ってあげるから日時を教えなさい」と、びっくりの展開に!
日にちと、岩室駅に着く時間を伝えると、改札前で会う約束をして電話を切りました。
間瀬銅山跡に謎が深まりながらも、まだ見ぬ方との冒険にワクワクしながら上越新幹線で新潟へと向かいました。
上越新幹線を新潟駅のひとつ手前の、燕三条駅で降り、越後線で岩室駅へ。
岩室駅へ向かう途中にメールが「さらに詳しい山田さんが連れて行って下さるので、岩室駅でお待ちしています」
ん? ん? 山田さん? さらに詳しい? 観光協会から紹介された詳しい方より詳しい方。もう比較最上級の最上級過ぎて、意味がわからないまま、とにかく駅に向かいます。
小さな無人の岩室駅に着くと改札に女性と年配の男性が見えます。
「こばやしさんですね! こちらが山田さんです! あとは山田さんお願いしますね!」
そう言い残すと、あとは山田さんと二人きりに。
「それじゃあ行きましょうか?」
山田さんからミネラルウォーターを受け取り「えーーー山田さん! 見ず知らずの僕に水をーー」なんてダジャレが出る余裕もなく車へ。
新潟県の話や、たわいもない話をしながら、車はどんどん山の方に進んでいきます。
山を越えると日本海。お世辞にも活気があるとは言えない道のりを越えて、目的の間瀬銅山跡近くの駐車場に入ります。
そこから歩いてアトリエ跡地に向かいます。
この辺りから、お互いの緊張が解けて、早川さんの話や、間瀬の話を気さくに話してくれるようになりました。
間瀬銅山は1700年(元禄13年)から1920年(大正9年)まで続いた銅山で、その跡地に早川亜美さんが1968年(昭和43年)にアトリエを建て、活動していた場所でした。
組まれた石垣は銅山で働く人々の長屋が建っていた場所だと教えてくれる山田さんに「詳しいですね!」と言うと「そうだよ、僕は当時岩室村の役場で働いていて、観光課にいたんだ。だから亜美さんと一緒にこの場所を切り開いて、アトリエを作ったんだもん」
えっ!?!? 山田さんってただこのあたりに詳しいおじいさんじゃなくて、早川さんと交流があった人なの!?
「もう50年近く前だけど、この道だって一緒に舗装したんだ」
道を見てみると、たしかにアスファルトのように舗装された面影が……。
「早川さんとは30歳近く離れていたんだけど、なんか気が合って、男同士、友達のようで親子のようで、いろいろな話をしたんだよ」
えっっ!?!? 男同士??? 早川亜美さんって男性なの!? アミーゴは男性なの??
「この先がアトリエの跡です」
とても、この先にアトリエ跡があるとは思えない風景が広がっています。
一気に情報があふれすぎてついていけないまま、なんとか山田さんの背中を追ってやぶの中を進むと、その先に驚きの光景が待ち受けていました。
やぶをかき分けると、突如目の前に現れたのは、ツタに絡まった大きな火焰型土器。その姿はまさに遺跡、ラピュタやインディージョーンズの世界に入った錯覚に陥ります。
ぼうぜんとしていると、山田さんが「これは早川亜美さんが作った、オリジナルの火焰型土器の聖火台です」と教えてくれました。
こんな大きなものを! というかなんでこんなにも無造作に?
謎はさらに深まる一方です。
日本で最初に火焰型土器が発掘された新潟県は、1964年東京オリンピックの際、国立競技場の聖火台に火焰型土器の聖火台を使用してもらえるよう打診していました。
しかし、その夢がかなわなかったので、同年に行われる新潟国体で使おうと、新潟県営陸上競技場(現新潟市陸上競技場)の聖火台として使われました。
新潟国体は6月6日から11日まで行われ、火焰型土器の聖火台は県民のみならず、多くの人に大きなインパクトを与えました。
しかし、その5日後6月16日にマグニチュード7.5という新潟地震に見舞われます。聖火台も陸上競技場も破損してしまいます。
オリンピックは10月ですので、地震の4カ月後になります。
ここでもう一度、当時の写真を見てみると、聖火台を支える台にひびが入るなど、地震の被害を見ることができます。
地震によって発生した津波などによって26人の犠牲者が出ています。他の県の聖火リレーに比べて、なんとなく元気がなさそうな表情からは、新潟地震の爪痕が見て取れます。
そして、聖火リレーの後にも、ドラマはありました。
聖火リレーの後、破損した聖火台の修復について、早川さんと山田さん、県の間で話し合いがもたれました。
いったんアトリエに戻ってきた聖火台を調べた早川さんが出した結論は「地震によって破損した聖火台を直すのは難しいから、新しいのを作る」というものでした。
その結果、オリジナルの聖火台は、半世紀以上の間、同じ場所に鎮座することになったのです。
山田さんは「このことを知っているのは早川さんと、おれと当時の県の職員だけ。いまの役所の人も知らないんじゃないかな」
ひょんなことから歴史のかけらを見つけてしまったようです。
土器をさすりながら、その昔山田さんと早川さんはこの場所を、芸術村として開拓する壮大な夢があったと教えてくれました。
この地域は「間瀬大工」という特殊な技術を持った宮大工さんと、漁師さんが出稼ぎに出て、生計を立てていたそうです。
その出稼ぎを少しでも少なくして、村のみんなが安心して暮らせる、夢の街をつくる、そんな思いが詰まっていたんだと話してくれました。
計画はさまざまな理由から頓挫してしまい、その後、早川さんも体調を崩し、夢は幻となってしまいました。
アトリエ跡地には彫り途中の石像や切り出した石が多くあったり、開拓のために誘致した古いリゾート施設が残っていたりと、この場所が夢半ばだということを物語っていました。
山田さんに1964年東京オリンピックの聖火リレーの事を尋ねると、地震のこともはっきり覚えていて、さらに「稲刈り真っただ中で、それどころではなかった」と教えてくれました。
やはりそうなんだなと思っていると、山田さんは「国体に地震で農家の人は稲刈りだし、みんな大変だったから、役場の若い男が聖火リレーにかり出されたんだよ。おれも走ったもんなー」。
えっ? 山田さん聖火リレー参加してたの!?
聞けば、役場の観光課に勤めていて、当時25歳の山田さんは、走るのが得意(当時100mを12秒台で走っていた)だったこともあり、聖火リレーに参加していたそう。
山田さん、まさか聖火リレーのランナーだったとは!
次の日新潟市役所の歴史文化課の方にお会いし、山田さんのお話を伝えると、みなさん、笑っちゃうほど驚いていました。
間瀬銅山の土器の存在は知っていたけれど、いまだに見たことがないらしく、僕が撮影した写真に食いつく食いつく。その土器が実はオリジナルであることも、あそこに芸術村を作ろうとしたことも知られていないようでした。
本当に、ジブリの世界のような話で驚いた火焰型土器をめぐる旅。新潟市の歴史課では、僕の話を市の担当者がメモるという不思議な光景が生まれていました。
そんな1枚の写真から見えたのは、「災害大国」日本の現実と、それでも五輪を盛り上げようとした地元の人たちの熱意。そして、「もう一つの聖火台」から生まれかけた芸術村という、ほろ苦いロマンの物語でした。
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