お金と仕事
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健康になれば医療費が減りま……せん!心地よい「直感」との戦い方

病気を予防できれば医療費は減らせる……。普通はそう考えますよね。だって、病気にならないんだから薬も手術も必要なくなるはずだと。でも、実はそうではない、というのが専門家の常識なんです。「counterintuitive(カウンターイントゥイティブ)」という英単語があります。普通の人の「直感(intuition)」と、専門家の「常識」にズレが生じている状態を表す言葉です。医療の分野で、この「counterintuitive」な状態がみられるのが「予防」だと言えます。政治家でも勘違いした発言が出やすい、やっかいな問題。東京大学教授の医療経済学者、康永秀生さんのインタビューから「counterintuitive」について考えます。(朝日新聞編集委員・浜田陽太郎)

医療と健康とお金の関係って複雑
先日、朝日新聞のオピニオン面に康永さんのインタビューが掲載されました。記事はこんなやりとりから始まります。
「大前提として、予防医療は絶対に推進すべきです。健康というかけがえのない価値を得られるのですから。しかし、それによって医療費を減らすことはできません。長期的には、むしろ増える可能性が高いといえます」
――なぜでしょうか。
「長生きすると、誰しもいずれは病気にかかります。その結果、生涯にかかる医療費は減りません。つまり予防医療は、医療費がかかるタイミングを先送りしているだけで、医療費を減らす効果はないのです。たとえば禁煙対策により肺がんになる人が減れば、短期的な医療費は減ります。でも寿命も長くなるので、一生にかかる医療費の総額はむしろ増えます。メタボ健診、がん検診なども同じことがいえます。これは専門家の間ではほぼ共通認識です」
メタボ健診などは「健康を改善する効果があるという前提を満たしているのかさえ、怪しい部分があります」ということです。驚きますよね。医療と健康とお金の関係って、本当に複雑なんです。
康永さんの主張は、著書『健康の経済学ー医療費を節約するために知っておきたいこと』(中央経済社)にも詳しく書かれています。
あるのか、タケコプター
私が「予防と医療費」に関心を持ったのは、経済産業省の官僚が書いた本を読んだのがきっかけでした。
予防によって医療費を削れば、公的保険制度を維持できる。そのためには、魅力的な予防や健康管理サービスを提供するヘルスケア産業の育成が必要……。これが、この本のメッセージです。もちろん康永さんの主張からすると、間違いです。
ところが、調べてみると、安倍晋三首相も「医療保険においても、しっかりと予防にインセンティブを置いていく。健康にインセンティブを置いていくことによって、医療費が削減されていく方向もある」と2018年9月の総裁戦後、NHKの報道番組で発言していました。
みんなが予防に取り組んで、医療費が削減される……。「そうなったらいいな。社会保障費が安くなって、消費増税もしなくていいかもしれないし」って期待してしまいますよね。
そこが、この問題の難しいところです。予防に取り組むのは基本的にいいことです。でも、医療費を削減できるという証拠はなく、むしろ増やす可能性が高い。だから、この国が抱えている「医療など社会保障の費用をどうやって賄うのか」という大問題への答えにはならないのです。
だから、安倍首相に近い世耕弘成・経済産業相のこんな発言を聞くと、がっかりすると同時に腹が立ちます。「それが社会保障なのかよ!」と思うわけです。明るいけど、軽い。軽すぎる……。
「私は明るい社会保障改革と呼んでいますけれども、今こそカットするとか制度をいじるというつらくて難しい議論ではなくて、明るい社会保障改革の議論が求められているのではないかと思っていただいております」

予防で医療費が減らせたらいいな、という「ふわっ」とした期待。それに対して、「そんなタケコプターみたいなものはない!」と、はっきりと言い切ったのが康永さんだったのです。
インタビューでは、次のように話しました。

謙虚で丁寧
実際にインタビューした康永秀生さんは、こちらの取材に対してとても丁寧に答えてくれました。著書についた帯の文言(「デタラメ医療を東大医学部教授がメッタ斬り!」)がちょっと過激で「メッタ斬りにされたらどうしよう」と思っていたのですが、杞憂(きゆう)でした。
康永さんをインタビューして特徴的だったのは、はっきりモノを言い、書くことでした。たとえば、「禁煙対策は絶対に必要だが、医療費を確実に増加させる」とか「画期的な医療技術が開発されて医療費を下げるというのは、ありえない」とはっきり伝え、わかりやすくその理由を説明できるのは、分厚い勉強と研究に裏打ちされているからでしょう。
記事が出たあと、康永さんに届いた反響も「おおむね好意的」だったそうです。SNSでの評価も前向きなものが目立ちました。
医療・健康分野でこわいのは、「病気が治ります」「健康になれます」といういい加減な情報にすがって、おかしな民間療法や商品・サービスに手を出すことです。
私たちは今、右肩上がりの時代には見えなかった問題と向き合わなければならなくなっています。その時、必要なのは「心地良い」言葉ではなく、時に自分の考えをも否定してくれる専門家の考察です。その情報にちゃんとしたエビデンスがあるのか、お墨付きを与えているのはまともな研究者なのか。消費者としても、そして有権者としても、見極める必要がありそうです。