連載
#24 #まぜこぜ世界へのカケハシ
車いす、運転手が拒否する理由 海外で感じた「想定外」へのギャップ
車いすの利用者に対し、交通機関の運転手が乗車を拒否した――。そんなニュースが報じられるたび、感情的な意見が集まります。難しいテーマだからこそ、背景事情をじっくり整理してみたい。そんな思いから、一人の車いすユーザーがエッセーを寄せてくれました。快適な移動環境を求める当事者の願いと、「安全と責任」をてんびんにかけざるを得ない、事業者側の悩み。その溝を埋める方法について考えます。
私の名前は、徳永啓太。先天性脳性まひにより、車いすを利用しています。9年前に、就職で愛媛県から上京し、現在31歳です。
学生時代に住んでいた地元と比べて、東京は交通網が発達しています。車を持っていなくても、どこでも行けて便利です。
しかし、朝のラッシュ時や、大事な人との約束を守りたい時などは、時間に追われてしまいがち。
「出来るだけ早く目的地に着きたい」「スムーズに電車やバスに乗りたい」
安全確保を優先するがゆえに、事業者側の乗車対応に時間が掛かった時などに、不満を抱いてしまうことがあります。
時にわがままな言い分でも、いちマイノリティとして声を上げることで、最終的に世の中が変わってくれる――。そんな気持ちから、「自分は正しい」という姿勢で意見を述べてしまうことも。ふと我に返った時、「自分の要求は本当に正しかったのか」と考え込む場面もあります。
昔に比べれば、駅のバリアフリー化が進むなど、交通機関は障害がある人にとって利用しやすくなっています。しかし当事者からすると、「もっと便利に」といった気持ちになるのも事実です。
先日、そんな自分の凝り固まった価値観を変える体験をしました。きっかけは、初めて訪れたタイで「異国の常識」を知ったこと。「安全と責任」を巡る意識の違いを中心に、お話していきたいと思います。
「微笑(ほほえ)みの国」と呼ばれるタイを訪れたのは、今年のゴールデンウイークのこと。私が一目で観光客であると分かったからか、現地の人はとても親切に接してくれました。
道に迷っていると、誰であろうと声をかけてくれます。タクシーを見つけようした時、見ず知らずの人が集まり、手伝ってくれた時は驚きました。
自分で乗り降りしようとして、「I'm fine!(大丈夫です)」と運転手に伝えても、グイグイと手伝ってくれます。こちらの気持ちはおかまいなしでした。(もしかすると「早く降りろ」という意味だったのかもしれませんが……)
では、日本の場合はどうでしょうか。
タクシーを呼び止めると、まず運転手に「何をすればいいでしょうか?」と尋ねられることが多いです。中には、声のかけ方が分からないのか、運転席から出てきてくれたものの、その場で立ち尽くしてしまう方もいます。
ちなみに私の場合、日本式のやり方に慣れているので、グイグイこられるよりも、どう手伝ってほしいか伝えられる方が助かります。
タイでは、システムの違いも感じました。
タクシーを利用する際、何かあった場合は、事業者側だけではなく、利用者も責任を負う……。タイでは、そんな意識が共有されているようでした。
今回の観光ではスマホ用アプリからタクシーを呼びました。現在地と目的地を入力すると、まずはアプリに登録している運転手から運賃が提示され、こちらが承諾すると迎えに来てくれます。
アプリを使わなかった時は、こちらからメーター計算にするよう伝えます。運転手から「いくらで行く」と提示してくるときは、高く見積もってくる場合もあるため、乗る側もだまされたり遠回りされたりしないよう、気を張っていなければなりません。
しかしどんな場面でも、「車いすに乗っているから」という理由で断られたことは、一度もなかったのです。背景には、安全に関する責任を、運転手と乗客の双方が、平等に負っていることがあると感じました。
一方、日本のタクシーで要求される運賃は、実際に走った分のみ。目的地を伝えれば、安心して運転を任せられます。ただ、車いす利用者である私が、タクシーに乗ろうとすると「何かあった時に安全が保てない」と運転手から言われることがあります。
東京都内の、あるタクシー会社によると、“いつ・誰が・何時に・どこからどこまで利用したか”をデータ化し、1年ほどは全て残している、とのことでした。なぜかと聞くと「クレームが来た時の証拠となるためです」。
車いす利用者の立場からすると、日本のタクシー会社は、クレームに対して、とても神経を使っているように見えます。
クレームという「想定外の出来事」への対応は、負担として受け止められ、その結果、規則通りに対応することが重視される。そんな流れが生まれているように思えます。
「想定外」が許されない以上、運転手の人が持っている「裁量」のキャパシティを超えた時点で、乗車を断らざるを得なくなってしまうのです。
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を控えている昨今。交通機関には、障害がある人も、ない人も人を受け入れる体制を整えて欲しいと思います。
しかし安全に関する責任を、全て現場が負わなければならないとしたら、「目の前の負担を減らしたい」という運転手の気持ちは理解できます。
そうではなく、安全に関する責任について、運転手と車いすを使う当事者、そして周りにいる人が分かち合う。すると、負担は均等になり、運転手が乗車拒否をする必要もなくなるのではないか。帰国後、そう考えるようになりました。
タイに行くまでの私は、タクシー運転手が自分の望む対応をしてくれなかった時、なぜそんなに難しいと思われるのか分からず、いらだちを覚えていました。
しかし、帰国後は心境が変わり、「なぜ日本は乗車を断わられ、タイでは違ったのか」と冷静に考えられるようになりました。バスやタクシーなどの運行会社で、人手不足が課題となっていることからも、現場の運転手は負担が重く、大変な状況下で働いているのだろうと感じます。
ソーシャルメディアを通じ、マイノリティの意見や、生きづらさを感じている人の情報に注目が集まりやすい現代。異なる立場の人々同士が、よい関係性を築くためには、お互いを知り、理解し合うことが求められるのではないでしょうか。
運賃の交渉力が必要な一方、交通事業者が利用客に対し、融通を利かせてくれるタイ。運賃は一定で、安心安全でありながら、臨機応変な対応は期待しづらい日本。この比較は極端かもしれませんが、どちらも一長一短です。
日本では、タクシー会社が安全について全責任を負うことで、誰に対しても平等なサービスの提供が実現されています。反面、柔軟な対応は、現場の運転手にとっては負担が大きく、ぜいたくな要求なのかもしれない。タイでの一件を通じ、そう考えさせられました。
交通機関の利用者と、サービスの提供者が話し合い、理解しあえる点を見つけてほしい――。そんなことを伝えたくて、今回の記事を書きました。
今年に入って、私はタクシーの乗車を何度か断られています。一般に、タクシーの運賃は、決して手頃な価格ではありません。
それでも必要に迫られ、利用しようとしたときに拒まれると、とてもつらいです。”車いすを使う人も必要としている”ことについて、もっと理解が広まればいいな、と思っています。
車いすユーザーにとって、交通機関を利用する際、周囲の人から協力を得ることは、残念ながら期待しづらいのが現状です。
「自分にとっての当たり前は、他人にとってそうではない」
障害のない人にも、この考え方を意識してもらえたら、状況が変わるきっかけになると感じます。そして当事者も、周囲の人々に要求を理解してもらうため、伝達力を身につけることが必要なのではないでしょうか。
多様性への理解が進みつつある現代。一方で、自分とは異なる存在に対する抵抗感には、根強いものがあります。少しずつでも、違う立場にある人同士が互いを知り、対話する。そのことの重要性が、ますます高まっているように感じています。
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