連載
#18 現場から考える安保
パイロット襲う魔の「空間識失調」 空自、F35A墜落で全機種対策
航空自衛隊の最新鋭ステルス戦闘機F35Aが4月に太平洋で墜落した事故で、空自は「操縦者が空間識失調に陥った可能性が高い」として、全機種で再発防止に努めるそうです。そこまで対策に気を遣う「空間識失調」って何でしょう。「パイロットなら誰でもなる」と言われてさらに気になり、取材してみました。(朝日新聞編集委員・藤田直央)
まず空間識失調の意味です。ニュースではさらっと「平衡感覚を失った状態」と説明されることもありますが、実はかなり厄介です。
航空医学の言葉で、パイロットが飛行中に視覚や聴覚などに異常をきたし、自機の姿勢や動き、地表との位置関係を実際と違う状態で思い込んでしまうことによく使われます。抜け出せないまま飛び続ければ、致命的な事故へとどんどん近づきます。
空自によると、空間識失調は、決まった航路で安全に旅客を運ぶことが第一の民航機よりも、臨機応変の飛行が迫られる軍用機、特に戦闘機のような動きの激しい航空機で起きがちです。また、視覚で周囲を確認しやすい昼間の晴天時よりも夜間や悪天候時に起こりがちとされます。
最近の自衛隊や民間のヘリコプターの墜落にも、夜間や悪天候での空間識失調が原因とみられるものがあります。
ベテランパイロットに聞くと「回転椅子に座って目を閉じ、回される感じです」と言われました。やってみると、くらくらするけど、わかったようなわからないような。空自はパイロット教育で「空間識失調にならない人はいない」として、なった後の対処を重視します。
空間識失調がパイロットにつきものだとしても、そのたびに事故が起きてはたまりません。陥ったらいかに早く気づいて対処するか。とりわけ一瞬の判断の遅れが致命的になる戦闘機ではどうするのか。それが今回のF35Aの事故で問われました。
6月10日の空自による事故報告では、「機体に問題はなく、操縦者が空間識失調に陥った可能性が高い」とされました。パイロットが亡くなったこともあり断定はできませんが、交信記録や墜落機の航跡などからそう推定されました。
事故の概要はこうです。
4月9日午後7時26分ごろ、空自三沢基地(青森県)から東へ飛んだF35Aがほか3機と太平洋上で訓練中、無関係の米軍航空機と距離を取るよう地上管制機関から降下指示を受けました。「はい。了解」とパイロットが応じた後、高度約9600mから急降下が始まり、30秒ほどで海面に激突しました。
速さは音速なみの毎時約1200kmに達したとみられます。F35Aの機能上は出ますが、この速さでしかも急角度での「通常はありえない降下」(戦闘機パイロット経験者)。一方で海面が迫ってもこのF35Aには態勢回復や緊急脱出の跡がなく、パイロットは落ち着いた声で交信していました。
パイロットの意識はあり、自身や機体の異常を訴えることもなかったのに、機体は海面へ墜落。つまり、パイロットは安全に飛んでいると思い込み、これほどの急降下をしていることに気づかない空間識失調になっていた可能性が高いはずだ、というわけです。
たとえ空間識失調に陥っていたとしても、素早く気づいて対処すれば、墜落を防ぐか、脱出して一命を取り留めることができたのではないか。パイロットを責めるのではなく、再発防止のためにあえて考えます。
他の航空機同様、F35Aの操縦席でも「姿勢指示器」という計器で自機の傾きを確認できます。空間識失調が起きやすい夜間や悪天候での飛行では、この計器をより注視することが欠かせません。いわばパイロットの命綱です。
ただ、パイロットが機体に関する自身の感覚と姿勢指示器の表示のずれに気づいても、すぐ自分の感覚を修正するのは容易ではありません。姿勢指示器の不調ではと思ったり、機械の影響を受けない方位磁針と見比べたり。夜間飛行で迷いながらも姿勢指示器に従い、雲の合間に街の灯が見えようやく迷いが晴れることもあるそうです。
空自によると 夜間の今回の事故当時に現場は晴れており、雲は少しあったそうです。月明かりが雲や海面に反射すれば自機の姿勢を視覚で認識する助けになるそうですが、事故当夜の月齢は3.8でほっそりしており、どこまで役だったかは微妙です。
もしこのパイロットが「上下がひっくり返るような」(戦闘機パイロット経験者)重い空間識失調に突然陥って、通常はありえない急降下をしてしまったとしたら……。音速に近い勢いで海面に突っ込むまでの30秒ほどは、「何か変だ→危ない!」と気づくには短すぎたかもしれません。
今回の事故では、飛行情報を詳しく記録したフライトデータレコーダーは見つかっておらず、亡くなったパイロットから事情も聞けません。空自は「空間識失調による事故である可能性が高い。それはF35Aに限らずどの航空機のパイロットにも起きうる」ということで、再発防止策を広くとることにしました。
空自にはパイロットを空間識失調に陥らせ、気づかせ、正常な飛行を保たせるための訓練装置が入間基地(埼玉県)にあります。この装置での訓練はこれまで候補生の時に一度だけでしたが、今後は全機種のパイロットが定期的に受けるようにする方針です。
ただ、機種によって空間識失調の形は異なります。空自の次世代の主力戦闘機となるF35A、領空侵犯を防ぐスクランブルを担う戦闘機F15、一昨年に空間識失調による高度誤認とみられる墜落事故が起きた救難用ヘリUH60J――。日ごろの訓練でひやりとした経験を共有しつつ事故を防ぐ一層の努力が、全国各地の配備部隊で求められます。
最後に、空間識失調という「魔物」への空自の向き合い方について、今回の取材で考えさせられたことを一つ紹介します。
空間識失調によるとみられる事故を、空自では基本的にパイロットの「ミス」とは言いません。パイロット自身が飛行状況を正しく認識できる状態で適切な操縦がされなければ「ミス」として技量の未熟さが問われますが、誰でもなりうる空間識失調によって認識が狂うことは「ミス」ではないとしています。
とはいえ航空機が墜落すれば乗員はもちろん地上の住民の命も脅かしますし、F35Aなら一機百数十億円という貴重な国防の手段を失うことにもなります。姿勢指示器を確認すれば空間識失調に気づけるのなら、気づかなかったり、気づいても対処できなかったりして甚大な被害を出す事故を起こせば、「ミス」と言われて仕方ないようにも思えます。
それでも空自が「ミス」と言わないのには訳があります。
戦闘訓練や災害派遣など過酷な状況で飛ぶ自衛隊のパイロットにとって、空間識失調という「魔物」との内なる戦いには、訓練を積んでも必ず勝てるとは限りません。克服できず墜落すれば死に直結します。そこには、空間識失調にいかに対応するかは、何らかの責任を外から問われる「ミス」云々以前に、パイロット自身の生死に関わるものだという厳しさがあります。
しかも今回のF35Aのような激しい墜落事故では、パイロットが亡くなって話を聞けないことがほとんどです。いくら外形的に空間識失調による事故とみえても、最期の瞬間まで操縦席にいた本人の話を聞かずに「ミス」と断ずることへのためらいが空自にはあるようです。
空自のあるパイロット経験者は空間識失調について、こう語りました。
「対処に最善を尽くすが、対処できなくてもミスではない。そして、そうなったときの覚悟はしています」
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