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「苦しむクラプトン」を間近で……ツアー支えた日本人 夜遊びも一緒
ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、カルロス・サンタナ、ジェフ・ベック、デビッド・ボウイ、エアロスミス、キッス、ビリー・ジョエル、ボン・ジョビ……。ウドー音楽事務所は半世紀以上にわたり、さまざまなミュージシャンを海外から招聘し、来日公演を主催してきました。その多くの人たちに「天国に来た」と言わせた「おもてなし術」とは? 代表取締役の高橋辰雄さん(66)に聞きました。(朝日新聞文化くらし報道部記者・坂本真子)
ツアーマネジャーは、ミュージシャンたちが日本に滞在中、付きっきりで要望に応えるのが仕事です。高橋さんも、宿泊や飲食、移動手段、楽屋の手配だけでなく、オフの買い物や観光にも同行しました。
「いかに気分よく舞台に上がってもらい、我々の思惑通りに動かして、ハッピーにして帰すかが勝負。衣食住が大切なんです」
ホテルだけでも、周囲の環境や部屋の並び順、階の指定、「エレベーターの近くはやめて」「数字の4はNG」「窓が開く部屋を」「あいつの隣は嫌だ」など、細かい注文があったそうです。
食事は、好き嫌いのほかに「台所を使いたい」「専任シェフを連れて行く」といった要望に応えたり、菜食主義者向けに大豆を使ったインド料理をデリバリーしたり、日本に輸入されていないミネラルウォーターや酒を手配したり。
そのほか、「飛行機は嫌い」「車の移動は20分以内」「ベンツかBMWを用意して」など、事前に寄せられる多くの希望をかなえるために奔走しました。
「だいたい深夜2時か3時に寝て、朝は8時頃に起きる生活でした。夜遊びに行く人とは一緒に飲んだり、ディスコに行ったり。夜遊びしない人たちには朝から買い物に付き合ったり、スタッフを会場に連れて行って機材を搬入したり。夜パターンと朝パターンの両方に対応して、1日中フルに働いていました。そのおかげでいろいろ覚えられたし、勉強になった。面白かったですね」
高橋さんが仕事を始めたのは1970年代半ば。こうしたノウハウはまだありませんでした。手探りの状態から始め、来日したミュージシャン本人やマネジャーたちから教わることも多かったそうです。
高橋さんは群馬県の出身。10代の頃から洋楽ファンでした。大学紛争のあおりで受験を諦めて観光業の専門学校に進学。2年で卒業し、スイスのベルンに半年留学してホテルの接客を学びました。
「共通語はスペイン語か英語。最初はボディランゲージでしゃべるしかなくて、多少の英語は覚えました。外国人に対する免疫もできて、劣等感がなくなり、開き直ったというか。だから、仕事を始めてからも、相手が誰だろうと気にせず接することができたんだと思います」
帰国して就職活動を始めますが、当時は海外旅行ブームで旅行会社は人気の的。なかなか就職先が決まらなくて人材派遣会社に登録し、仕事で知り合った人の紹介で74年、22歳でアルバイトとしてウドーに入りました。翌年、社員になり、ツアーマネジャーとしての日々が始まりました。
「スイスのホテルでフロントやルームサービスを経験していたことが、仕事に役立ちました。ミュージシャンやスタッフとは朝も昼も夜も一緒。コンサートが終わると飲みに行って、朝方まで話して、実践で英語を覚えたんです」
最も長く担当しているのは、エリック・クラプトンです。1975年の2度目の来日公演から担当し、2年ごとに来日するたび、行動を共にしました。
「僕はエリックより7歳下。お酒を飲んでご飯を食べて、日本にいるお友達のような感じでスタートして、すぐに仲良くなりました。マネジャーにもすごく信用されて、『お前に任すから好きにやれ』と」
クラプトンは当初、アルコール依存に苦しんでいましたが、愛息の死(91年)を経て立ち直ると、新たな家族を得て、禁酒と禁煙に成功。依存症患者を支援する活動を始めました。
そんなクラプトンの姿を、来日のたびに間近で見ていたと、高橋さんは振り返ります。
「パティ・ボイドと一緒に来日したときもあったし、酔っぱらってあまりいいステージじゃないときもあった。禁酒してからは落ち着きが出てきたと思います。彼の人生を見て、人間の弱さ、強さを考えさせられましたね」
現場を離れた今も、クラプトンの来日時は空港で出迎えます。「ハーイ」と笑顔で現れると安心するそうです。
一昨年にはロンドンでクラプトンの自宅を訪ね、食事をご馳走になったという高橋さん。クラプトンは今年4月に22回目の来日を予定しています。
担当したミュージシャンは多く、カルロス・サンタナやジェフ・ベックからも厚い信頼を寄せられています。
「エリック・クラプトンとジェフ・ベック、カルロス・サンタナの3人は非常に素晴らしい人たちで、マネジャーたちは仕事を教えてくれました。すごく恵まれた仕事をしてきたと思っています」
特に影響を受けたのは、ディープ・パープルやレインボーの元ギタリスト、リッチー・ブラックモアだったそうです。
「彼はいろんな人を観察しているんです。仕事は何で、いま何を考えているか、とか。そして完全主義者。他人も自分と同じようにやってくれないと気が済まないから、(ボーカリストに対して)『なんでお前は酒を飲んで声が出ないんだ』とか、腹が立つわけです。でも、こちらが一生懸命やって、彼が求めるものに応えれば、きちんと対応してくれます。コンサートの後は、バーで飲みながら手品を見せてくれました」
ある晩、ホテルに戻り、「おやすみ」とリッチーにあいさつすると、「いや、お前は今夜眠れないよ」。すると、高橋さんの部屋の鍵が開かず、ホテルの人を呼んでドアのシリンダーを替える騒ぎに。
翌日、ディープ・パープルのキーボード、ジョン・ロードにその話をすると、「英国のオールドトリックだ」。瞬間接着剤を鍵穴に入れて鍵が入らないようにする、といういたずらでした(除光液で溶かすと直るそうです)。
別の日の夜は、ホテルの部屋に入ると、ニンニクのにおいが。バスルームの縁や歯ブラシにチューブのニンニクを塗られていました。そしてベッドに入ると冷たい。シーツの下にシェービングクリームがまかれていたそうです。
それならば……と、高橋さんは考えました。
「リッチーの部屋のタオルとトイレットペーパーを全部取って、電球を外したんです。翌日、『どう?昨日はよく眠れた?』って聞いたら、『うん、問題なく眠れたよ』とニカーッと笑ってね。そうやって人間関係を築きました」
伝説のギタリストといたずらの応酬とは、高橋さんもかなりの強者です。
そして高橋さんは、ある「事件」を教えてくれました。
ディープ・パープルは1993年に来日公演が決まっていましたが、突然、リッチーのガールフレンドから高橋さんに電話があり、「タック、リッチーは日本に行かないから、ミスターウドーに伝えておいてね」。
エージェントに確認すると、「リッチーは来ない」との回答。しかし、日本公演のチケットは既に発売されています。仕方なく、急きょギタリストを探すことに。サンタナの元マネジャーの紹介でジョー・サトリアーニに決まりました。
「日本で4日間リハーサルの時間をとって、(ディープ・パープルの)メンバーとジョー・サトリアーニが高田馬場のスタジオで初めて会ったんですが、お互いに緊張していたんです」
それを見た高橋さんは、以前エリック・クラプトンが酒に酔った状態でステージに上がった際、どれぐらい酔っているかをスタッフに知らせるために、マネジャーが点数を紙に書いて示したことを思い出しました。
「クルーに紙を渡して、10点満点で9.5とか数字を書かせて、1曲目の演奏が終わった後に提示させたんです。スタジオに『9.9』『9.8』と書いた紙が一斉に並ぶのを見て、メンバーがニコッと笑った。それまで静かだった彼らが和気あいあいと自己紹介を始めて、4日間の予定だったリハーサルが3日で済んじゃった。僕自身にいいライブを見たいという好奇心があったし、コンサート自体はキャンセルできないので、裏方として最大限できることをやろうとしただけですが、仕事と割り切っていたら違う結果になっていたかもしれません」
そして、来日公演は無事に行われました。
日本のスタッフに対して、ミュージシャンは皆、対等に接したそうです。
「どんなに売れていても、僕たちに対しては上から目線や命令ではなく、普通のお友達感覚でくる人が多かったですね。僕もだんだん仕事と思わず、楽しんでやろうと思うようになりました。その方が彼らにも変に気を使わないし、リラックスしてできるんじゃないかと。楽しむというより友達感覚。仕事と友達感覚を分けながら、です」
ウドーでは今、来日公演の制作やツアーも全て社員によるチームで担っています。外国人スタッフと現場で直に話をして、効率よく仕事を進める仕組みは、高橋さんたちが作ってきたものです。
「いろんなミュージシャンたちが、来日すると『天国に来た』と言ってくれます。日本ではウドーの人間が全てをやるから、楽なんですよ。そうやってミュージシャンたちと一緒に、いいライブを作ってきたんです。つらいこともあったけど、いいライブを見ると忘れちゃうんです。いいや、って」と笑った高橋さんには、自負があると言います。
「洋楽のライブ、そして洋楽そのものを日本に根づかせ、大規模なライブやホールコンサートのノウハウを作り上げた。僕らがやってきたことだと思っています」
日本の音楽シーンに対して思うことはあるのでしょうか。
「例えばTOTOのスティーブ・ルカサーが六本木のビートルズバーでギターを弾くと、それまで演奏していた日本人のバンドと同じ楽器なのに音色が全然違うんですよ。チープ・トリックのロビン・ザンダーは、酔っぱらってビートルズを歌っても全然キーが崩れない。今は日本人もテクニックはあるけど、音楽として表現するときに、まだ何かが違う」
「日本の狭い中で売れて、ビジネスにはなるかもしれない。でも、もっと外に行って欲しいですね。海外のミュージシャンたちは世界中で評価されているから日本にも来られる。日本のミュージシャンも、海外で評価されれば本物だと思うんです」
ウドー50周年展を見に行くと、1970年代や80年代の来日公演のポスターを展示するパネルの前に、人だかりができていました。
当時、日本で洋楽のコンサートを見て、心を動かされた人は多かったことでしょう。私もエアロスミスの来日公演でスティーヴン・タイラーと共に歌い、キッスのコンサートでジーン・シモンズが火を噴くのを見てワクワクしたことを、今でもよく覚えています。
1970年代や80年代、洋楽は多くの日本人にとって遠い憧れの存在であり、音楽の先生でした。洋楽を聴いて音楽を学び、海外のミュージシャンに憧れて楽器を手に取る。好きなミュージシャンのルーツをたどり、彼らが影響を受けた音楽を聴く。そうやって育った人たちが、日本の音楽シーンを作っていきました。
90年代以降、J-POPでミリオンヒットが生まれ、日本のロックバンドが大規模コンサートを成功させるようになると、日本における洋楽の影響は徐々に薄れていきます。日本のミュージシャンに憧れ、洋楽を聴かない世代も増えました。
そして今は、YouTubeなどで日本発の音楽がすぐに世界中で共有される時代。日本のミュージシャンが海外でライブを行うことも珍しくなくなりました。
一方で、70~80年代に洋楽を聴いて育った人たちが40~50代になり、当時好きだった音楽をテレビのCMなどに使うことで、改めてリバイバルヒットする、という事例も。
また、映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、リアルタイムでクイーンを知る世代だけでなく、若い人たちも映画館に足を運んだから、あれだけの大ヒットになったと言われています。
今も根強く支持される洋楽。その源流の一つは、1970~80年代、日本で行われた来日コンサートにありました。日本の音楽シーンに影響を与えた、そんなコンサートを実現できたのは、高橋さんたちツアーマネジャーによる「おもてなし術」あってこそ。
何もノウハウがないところから始めたという高橋さんたちの歩みは、今につながる日本の音楽シーンに、確かな足跡を刻んでいます。
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