連載
#2 働き方を問う
「本当に壊れちゃう」過労死したスーパー店員が出したSOSの意味
来月から労働時間をめぐるルールが大きく変わります。これまでは労使で取り決めを結べば無制限で残業する(させる)ことが可能でしたが、4月からは残業時間に上限が設けられます。では、このルールが実施されれば過労死ゼロが実現できるのでしょうか。残念ながら、私はそう考えていません。最大の理由は、日本の職場には「サービス残業」という悪しき習慣がはびこっているからです。(朝日新聞記者・牧内昇平)
労働基準法の改正により、具体的には、最も忙しい時期でも「1カ月で100時間、2~6カ月の平均で80時間」を超えて残業させることはできなくなります。建設業やトラック運転手など一部の職種をのぞき、大企業では今年4月から、中小企業は来年4月から、このルールが適用されます。上限として設けられた「1カ月で100時間、2~6カ月の平均で80時間」の残業は、国が定める「過労死ライン」と同じです。
しかし、サービス残業が無くならなければ、こうしたルールが全く無意味になるのは明らかです。私は今回、過労死遺族のルポルタージュを刊行しました(『過労死 その仕事、命より大切ですか』ポプラ社)。その中から、サービス残業の末に過労死してしまったスーパー勤務の男性の事例を抜粋して紹介します。
〈これ以上働いたら本当に壊れちゃうよ〉
埼玉県在住の富山久則さん(仮名・42歳)が親しい友人あてにこんなメールを送ったのは、2014年5月17日の夜だった。
首都圏の中堅スーパー「いなげや」で売り場のチーフを務めていた久則さんは、それから8日後の25日午後、いつものように勤務先の「いなげや志木柏町店」で接客していると、急に言葉が出なくなる症状があらわれた。自ら119番通報し、救急車で近くの総合病院に搬送された。
このときは検査を受けても異常が見つからず、経過観察のために数日入院しただけだった。病院で7日間すごし、久則さんは退院した。その2日後には職場に戻ったが、復帰からまもない6月5日夜、こんどは本格的な脳梗塞の発作に襲われた。
搬送先は5月の時と同じ病院だった。駆けつけた父の信一郎さん(仮名)を待っていたのは、「意識が戻ることはないでしょう」という、医師からの宣告だった。倒れてから17日目の2014年6月21日、久則さんは病室で静かに息を引き取った。
久則さんがチーフを務めていた一般食品(グロサリー)部門は、豆腐や牛乳、加工食品、調味料などの仕入れや売り上げの管理を行う。幅広い商品知識を求められるのが特徴だ。店長・副店長の指示を仰ぎつつ、パートやアルバイトを含めた部下たちを束ねるという骨の折れるポストだった。
父の信一郎さんは、嶋﨑量氏ら労働問題に詳しい弁護士たちに相談し、会社に勤務記録を提出するように求めた。届いた資料は毎月16日から翌月15日までの一カ月単位で、予定されていた勤務シフトと実際の始業・終業時刻が入力されていた。
資料の一番下に月間の働いた時間がまとめられていたが、その数字を見た信一郎さんは思わず首をかしげた。死亡前数カ月のどの月をみても総労働時間は200時間くらいしかなかったからだ。
法律上は週40時間、1日8時間を超えて働いた分が「時間外労働(残業)」とみなされる。22日働くと176時間だから、おおざっぱに計算すると久則さんの法律上の残業は月30時間くらいだった。「過労死ライン」(月80時間の残業)を大きく下回っており、このままでは労災は認められないだろう。
信一郎さんが生前に聞いていた状況とは大きく食い違っていた。一体どういうことなのか。弁護士の嶋﨑氏はこう話す。 「さまざまな資料を会社から入手した結果、記録に残らないサービス残業をたくさんしていたことが判明したのです」
嶋﨑氏によると、いなげや志木柏町店は「キンタイマスター」(以下、キンタイ)というコンピューター上のシステムで働いた時間を管理していた。従業員はそれぞれICカードを持ち、始業と終業時にカード読み取り機に通す。カードを通した時刻がキンタイに登録される。会社の勤務記録に入力されていた時間は、このキンタイの記録と同じだった。
だが、弁護団が調査を進めるにつれて、この記録が必ずしも正しくないことが分かってきたのだ。
最大のヒントは、店が保存していた「退店チェックリスト」(以下、退店リスト)にあった。閉店後、その日最後に店を出る従業員が広い店内の随所にあるエアコンや照明の消し忘れを防ぐために記入する、一枚の紙だ。その日店を閉めた従業員の署名欄もある。
会社から手に入れたこのリストを確認すると、久則さんの名前が随所に出てきた。キンタイの記録上は閉店よりずっと前に仕事を終えているはずなのに、なぜか退店リストに名前が載っている日もあった。
では、閉店作業をした日は何時まで働いていたのか。
参考になったのは店の警備記録だった。最後に店を出る従業員が出入り口の警備機器をセットし、翌朝いちばんに出勤した人が解除していた。警備機器のセット時刻を調べれば、退店リストに名前があった日に久則さんが何時まで働いたかが分かると考えたのだ。
予想した通り、警備記録とキンタイは大きく食いちがった。最初に救急搬送された5月25日の前日までの2週間をまとめると、下の図のようになった。
空欄は入力がなかった日だ。この図を見ると、1時間超の深刻なサービス残業があったと推定される日は3日間あった。たとえば5月19日(月)はキンタイ上の終業は「18時30分」だが、退店リストに久則さんの名前があり、警備機器がセットされたのは「23時13分」だった。休憩なしの場合、この日だけで4時間半ものサービス残業をしていた可能性があった。
発作の4週間前まで調べたのが次の図だ。
状況は同じと言うか、むしろ悪い。5月4日(日)のキンタイ上の終業は「21時18分」だが、警備記録は「02時01分」だ。つまり5日(月)の午前2時1分である。その5日の始業は「8時9分」とある。いったい久則さんはこの日何時間眠れたのだろうか。
発作前の4週間のうち、11日分の退店リストに久則さんの名前があった。キンタイと警備記録とのズレを合計すると、およそ30時間近くのサービス残業をしていた疑いがあった。
久則さんが亡くなってから約1年後の2015年5月、父の信一郎さんはさいたま労働基準監督署に労災を申請した。弁護団は調べ上げたサービス残業の実態を労基署に報告した。その成果があったのかもしれない。労基署は残業時間を計算する時、退店リストや店の警備記録を活用した。
その結果、発症前の4カ月で月平均75時間53分の時間外労働があったと認められた。これだけでも月平均80時間という過労死ラインにおおむね合致する数字だが、労基署はさらに、正式に認めた「75時間」以外にも〈日・時間が特定できない労働時間があると推定される〉と指摘し、労災を認めた。
〈これ以上働いたら本当に壊れちゃうよ〉。久則さんが親しい友人に送ったメールの意味をかみしめたい。取材を通じ、わたしはサービス残業への認識が甘かったことを深く反省させられた。
正直言って、サービス残業はお金の問題であるという意識が、わたしの中には強かった。働いた分の給料をもらえないのは不合理だという、当たり前の憤りだ。それはそれで正しいのだが、「お金」以上に大切な「命」や「健康」がサービス残業によって危険にさらされるという事実を、改めて突きつけられた気持ちだった。
もし久則さんの本当の労働時間が記録されていたら過労死は防げたかもしれないと、わたしは思う。過労死ラインに近い働き方が分かれば、まともな会社なら上司や人事部、産業医が注意するからだ。だが、30時間程度の残業では社内で注目されることもないだろう。サービス残業が久則さんの命を守るチャンスを奪ってしまったとも言えないだろうか。
2018年夏、労働基準法という法律が改正され、残業時間に法律上の上限が設けられた。上限は過労死ラインを参考にして「1カ月で100時間、2~6カ月の平均で80時間」とされた。会社がこれを超えて働かせることはできなくなった。だが、サービス残業がまかり通ってしまえば、こうしたルールが全く無意味になるのは明らかだ。働いた時間を記録に残すという当たり前のことを職場は徹底しなければならない。
2017年12月、信一郎さんは会社に損害賠償を求める裁判を起こした。二度と同じようなことが起きてほしくない」という思いからだ。株式会社いなげやの広報担当者は「係争中につきご対応を控えさせていただきます」としている。
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