感動
取材から数時間後の悲報……「水産女子」が同い年の記者に語った夢
笑顔が絶えなかった取材から数時間後、私と同学年だった取材相手の女性(41)が11月23日昼、大好きだった海で事故死した。高齢化率86%にのぼる三重県の漁村で一から定置網漁を立ち上げ、担い手不足に悩む漁業の未来を開こうと夢見ていた矢先だった。(朝日新聞津総局記者・広部憲太郎)
女性の名前は田中優未さんという。12月16日、東京・虎ノ門にある居酒屋「くろきん」であったお別れ会では、企業の幹部や外国人、官僚、大学教授、地方議員、大相撲力士ら約100人が集まった。店中に故人の笑顔の写真が飾られ、三重県直送の魚を使った料理が振る舞われた。
同店など都内に9店舗を運営する会社「ゲイト」の五月女圭一社長は、声を詰まらせながらあいさつした。「涙はかれたと思っていたけど、どこからかあふれてきて流れ続けています」。社長にとって、田中さんは「右腕どころじゃない。僕は彼女が描いていた水産業の世界に乗っただけだった」という存在だった。
田中さんはゲイトから委託され、三重県南部の尾鷲市にある人口220人の須賀利町という集落に月の半分ほど暮らしながら、今年3月に定置網漁を始めた。
私はゲイトが三重県で水産業に関わりだした2016年秋から継続して取材している。彼女は会う度、笑顔で応えてくれた。
今年の年末、尾鷲市の魅力を伝えるシリーズ企画を担当することになった。漁業の最前線で奮闘する彼女を取り上げようと、インタビューを申し込み、快諾をもらった。11月22日夜、ゲイトが事務所にしている民家で、生い立ちから、漁業に行き着くまでを語った。
「漁業に興味は全くなかったんです」。熊本県出身で福岡県の大学卒業後、4年ほどITエンジニアとして金融系のシステム運用に関わった。豪州留学などを経て、インドネシアの首都ジャカルタに渡り、金融システムの営業の後、現地の建築設計事務所で働いた。ホテルや店舗を作ろうとする日本企業の要望を聞いて施工側に伝えるなど、橋渡し役を務めた。
そんな日々を送るうち、「日本とインドネシアを行ったり来たりする仕事がしたい」という気持ちが膨らんだ。SNSでつながっていたゲイトの五月女社長を頼り、3年前から同社の事業に関わりだした。
最初は同社が持つ東京のマンションを、インドネシアのデザイナーに頼んで民泊用に改装した。「若手デザイナーを育てたかったし、彼らが向こうで宣伝すればインバウンド需要になる」と構想を描いていた。
ゲイトは16年、三重県熊野市で水産加工業に乗り出し、産地から魚介類を店舗に直送する仕組みを作るため、県内で漁業も始めようとした。彼女は昨秋から水産事業に加わり、漁業参入を受け入れた尾鷲市須賀利町に通うようになった。
須賀利町は熊野灘に面した入り江の町。尾鷲市の飛び地にあり、かつては巡航船に乗らなければ、市中心部に行けない「陸の孤島」だった。今はトンネルがつながったが、少子化には逆らえず、高齢化率は86%にも及ぶ。
「高台をのぼってリアス式海岸を見下ろすと、山の下に海が迫って、美しかった。新鮮だった半面、人がいないので事業は難しいのではとも思った」
彼女は須賀利を歩き回った。
「このままでは集落が無くなる」「昔はマグロがたくさん捕れたのに」。そんな不安の声を聞くうちに、漁業だけで無く、町の再生への思いがわいた。「東京から来たわけの分からない子にもチャンスを与えてくれた。須賀利に愛着がわいて、何とかしなければと考えました」
人口が減り、残った住民はお年寄りばかり。かつて近海漁業で栄えた三重県南部の東紀州に地域再生の光が見えてきた。手を差し伸べたのは、東京の外食産業。現地で漁業や水産加工を手がけ、本社を移転する構想も打ち…
操業に向けて、自身のITキャリアを生かした。漁業は漁師の経験や勘に頼ることも少なくなかったが、「気分次第で毎日やるべき仕事が変わっていては、グランドデザインが描けない。作業工程の可視化から始めました」。
生産工程の管理で使われる「ガントチャート」という表に、網を張る工程、倉庫の確保や備品管理、必要な船舶免許の取得から、トイレの設置に至るまで必要項目を落とし込み、パソコンで管理した。
「体験しないと改善点も分からない」。実際に漁船にも乗り、魚の捕り方や専門用語を一から教わった。「仕組み作りが使命と思っていたけど、取れたての魚をおいしいままに食べられることに感動しました」
漁の効率化に努めたのには、理由があった。「きつい、汚いという水産のイメージを変えて、女性でも漁に出られるようにしたい。須賀利の人は元々、夫婦で船に乗っていた。女性にも水産業という選択肢があるのが、世の中に知られていなかっただけなんです」
11月、水産庁の「水産女子」というプロジェクトにも参加していた。全国の女性漁師らが企業と連携しながら、漁業の負担を軽減したり、魚を使った新商品を開発したりする試みだった。「例えばITや人工知能を使い、網に魚が入っているかが事前に分かれば毎日漁に出なくてもいい」という未来像も話していた。
町を歩き回り、地元の女性と仲良くなって、立ち話を重ねた。「この魚はこんな風に料理して、お店で出せば」と言われ、地元ならではの調理法を教わり、みりん干しなどを東京の店のメニューに加えた。「魚を一番おいしくする方法を知っているのは地元の女性たちだから」と笑っていた。
須賀利で長年漁師をしていた世古隆一さん(66)はゲイトの漁船に乗り、田中さんの姿を間近で見てきた。「船などにトラブルが発生して修理する時も決済がすぐにできるようになった。『悪くなる前にメンテナンスをしましょう』と言ってくれた。町でも住民みんなに声をかけて、孫のような雰囲気を出していた」
彼女は町の未来を壮大に描いていた。「住民は漁業従事者だけではない。全体が潤って、幸せになる仕組みを作りたい」。企業のサテライトオフィスを作ったり、須賀利で捕れる伊勢エビを海外に売り込んだり、漁業体験を観光資源にしたりするための準備を進めていた。東京では企業を回り、須賀利での協業を持ちかけていた。
東京在住だが「近々住民票を須賀利に移してもいい」と話すほど、町に溶け込んでいた。「漁業従事者を増やして、大好きな須賀利の人たちが生き生きと楽しく過ごせるようにしたい」と夢を語った。
1時間強のインタビューの最後、年齢を尋ねた。エネルギッシュなイメージから、4、5歳は下だと思っていたが、1977年生まれの同学年と知り、のけぞった。「同級生じゃないですか。もっとカジュアルに聞いて下さいよ」と明るく言ってくれた。
取材後、仲間と新鮮な刺し身や鍋をつついた。彼女はカツオ漁などでにぎやかだった頃の須賀利を特集したテレビの映像を見ながら、おいしそうに大好きな焼酎をあおった。
翌11月23日は午前5時に起床。漁の姿を写真に収めるため、一緒にゲイトの漁船「八咫丸」に乗った。ピンクのつなぎを着た彼女は、8キロ沖にある定置網に着くと、男性漁師に交じって勢いよく網を引っ張り上げた。網からこぼれた魚は世古さんらに教わりながら、糸を懸命に引っ張った。
大きな獲物が釣れて、ポーズを求めると、とびきりの笑顔を見せた。結果的にこの時が、最後の漁師姿になってしまった……。
船で須賀利町の事務所に戻ると、一緒に朝食を取った。この日の漁で捕れた魚の刺し身や焼き魚、身がいっぱい詰まったみそ汁に舌鼓を打ち、彼女もモリモリと食べていた。
「この後、また船に乗って、海に潜って定置網の点検をするんです」と彼女は言った。私は「気をつけて下さいね」と声をかけた。別の取材の予定があったため、午前9時半過ぎ、須賀利を離れた私を、笑顔で見送ってくれた。
これが最後の別れになってしまうなんて、全く考えなかった。
翌朝、私は宿泊先だった尾鷲市のホテルのロビーにあった新聞を何げなく開いたとき、「女性ダイバー死亡」という短い記事を見つけた。目を通すと、「田中優未」という4文字が目に飛び込んだ。私は五月女社長の携帯を鳴らした。社長は「すぐに救助されたんだけど、心肺停止になって……」と涙声になっていた。
尾鷲海上保安部などへの取材によると、田中さんは23日の昼、定置網を点検するため、世古さんと海に潜ったが、船に上がってこなかった。世古さんが探したところ海底に倒れており、救助されたが、程なく息を引き取った。病気の発作に起因する溺死の可能性が高いという。
遺体は23日夜のうちに、須賀利町に運ばれた。地元の寺がお経を上げ、翌朝にかけて地元の人が次々と弔問した。訃報を受けた姉の裕子さん(43)は、この日初めて須賀利に駆けつけた。「夜は星がきれいで、朝は波音とカモメの鳴き声で目が覚める美しい町。こういうことじゃ無いときに来たかった」
妹の仕事の詳細は知らなかった。それでも、実家に帰る度、家族に「須賀利に遊びに来て」と言っていたという。以前より、表情が柔らかくなったとも思っていた。「優未自身も須賀利に癒やされて、キラキラと輝いていました」
遺品となったピンク色のつなぎは葬儀があった故郷熊本に持ち込まれたが、遺族は「優未の夢をやり遂げてほしい」という思いを込め、ゲイトに託した。
大きな未来を描いていた、同い年の彼女の死を、私も最初は受け止められなかった。当初予定したシリーズ企画での掲載は難しいが、最期の言葉を聞いた人間として、思いを書き残す責任に駆られた。
ICレコーダーに亡くなる前日の録音がある。再生ボタンを押すが、明るい声を聞けば聞くほど、胸が詰まった。連続して聴けるのは2、3分が限界で、何度も停止ボタンを押した。インタビュー終盤、田中さんは「また明日も取材がありますね」と言っていた。
そこから、24時間も経たずに逝くなんて、誰が想像しただろう。深夜の会社で1人聴き終わった時、涙があふれた。追悼記事は、12月15日の朝日新聞三重県版に載り、朝日新聞デジタルでも配信された。
三重県尾鷲市の飛び地の須賀利町で、定置網漁から水産ビジネスを切り開こうとしていた41歳の女性が11月、作業中の事故で亡くなった。「漁業従事者を増やし、地元の人が生き生き過ごせるようにしたい」。亡くな…
翌16日、東京であったお別れ会に、私も掲載紙を持ち込んで三重から駆けつけた。店内には田中さんの在りし日の写真が飾られ、約100人が駆けつけた。
「初めて会う人でも盛り上がって、スッと入ってくることができる。私も優未さんを通じて、輪を広げてもらった」
熊本県人吉市にある高橋酒造のお客様創造本部長・久保田一博さん(59)は田中さんとの出会いをきっかけに、同社の米焼酎「白岳 しろ」を、ゲイトの店舗に卸していた。店で会うといつも「白岳」と書かれた前掛けで、出迎えてくれた。須賀利直送の魚を「新鮮なんですよ」と言った時の目の輝きが、久保田さんは忘れられない。
十両経験もある大相撲の幕下力士・肥後ノ城(34)は同郷の縁で知り合った。「いつも笑顔で楽しませてくれ、息子も抱っこしてかわいがってくれた。お店で激励会も開き、今年の春場所で幕下優勝した時もお祝いしてくれた。須賀利にも行きたかった。身内が亡くなるくらいショックです」
彼女は須賀利のグランドデザインも描いていた。芝浦工業大の教員や学生らを町に招き、空き家を改装するなどして活用し、活気につなげようと考えていた。
同大特任准教授で建築家の岡野道子さん(39)は「須賀利は家並みがきれいで残したくなる風景。空き家には立派なものもあり、リノベーションも視野に町のデザインを描こうと、住民へのアンケートを行ったり、町の将来像の模型を作ったりしている矢先だった。町の人の雇用を生み出すような未来を考えていた」と話す。
学生たちも10回以上須賀利を訪れ、漁船にも乗せてもらった。「優未さんは何でもお世話してくれるお姉さんのような存在でした」。同大教授の山代悟さん(49)も「須賀利の飲み会で、料理をしていた姿が忘れられない。学生が一番ショックを受けている」と惜しむ。彼女亡き後もプロジェクトは継続する。
お別れ会で、姉の裕子さんは声を詰まらせながらあいさつした。「若い時から田中家で一番の自由人。発想力やアイデアがすごかった。突然すぎて、亡くなった実感はないと思いますが、悲しむだけで無く、優未がやろうとしていたことを頑張ってやり遂げてほしい。記憶の中で、優未は生きている」。ゲイトの五月女社長も最後は気丈に振る舞った。「彼女が5年、10年と活躍する姿を見たかった。志は引き継ぎたい」
いつも笑顔の彼女らしく、出席者の誰もがおいしい酒と料理を口にしながら、明るく思い出話に花を咲かせたお別れ会だった。
人口220人、高齢化率86%の小漁村の再生は簡単ではないだろう。それでも、少子高齢化に歯止めがかからない地方が進むべき未来を、彼女は描いていたのではないだろうか。今にも動き出しそうな船上での生き生きとした写真を前に、須賀利町の将来を見守り続けたいと誓った。
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