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引きこもり、若はげ、風俗、借金…全部やった「平成元年生まれ」の今
引きこもり、若はげ、ブラック職場、風俗狂い、借金、夜逃げ。どれか一つでも大変な試練を、一人でコンプリートした平成元年生まれの男性がいます。彼の29年間は「生きづらさ」との戦いでした。平成の終わりが近づく今、やっと自分の道を見つけ、新元号の時代を前向きに生きようとしています。彼は問います。「回り道はダメですか?」と。(朝日新聞記者・高野真吾)
コンプを遂げた「勇者」の名は、アニメーターの上野鷹秋さん(29)。現在は東京都狛江市の先輩宅に居候暮らしです。
その先輩たちとアニメ制作ユニット「KWANED」(クワネド)を結成。不器用な男と宇宙人が一緒に暮らすアニメ「ダムダムボーイズ」を作り、アニメ専用アプリに投稿するなどしています。
「いっぱい回り道をしたけど、学生時代から大好きなアニメ作りに戻って来ることができました。将来の不安はゼロではありませんが、今は幸せです」
飛びきりの笑顔で話す上野さんですが、今の生活にたどり着くまでには七転八倒の「回り道」がありました。
上野さんは宇都宮市の出身。いじめを受けたことはありませんが、幼少期から「集中力がない」「頭が回らない」「協調性がない」と言われ続けたそうです。
それでも市内の私立中学に進学し、系列の高校2年生になるまではまずまず順調でした。
しかし、ここで最初の大きな試練が来ました。不登校で自宅に引きこもるようになったのです。
直接の原因は数学の先生とそりが合わなかったこと。数学で赤点を取るようになると同時に他教科の成績も目に見えて低下します。学習意欲がなくなりました。
引きこもりに追い打ちをかける第二の試練が襲います。頭頂部の髪の毛が薄い、若はげの悩みが本格化してきたのです。
プールに入ると「落ち武者」のような姿になるのが、とても嫌でした。
月2回ほど本来の教室ではない特別室に登校する以外、自宅に引きこもる生活。その時、心の支えになったのは1970年代の洋画や、80年代の日本のロボットアニメ。ガンプラを中心にプラモデル作りにも時間を使いました。
「高校2、3年の時は、先が全く見えない不安の中、息苦しい日々が続きました。とてもきつかったです」
苦しい中でも光はさします。ガンプラの交流サイト内で「プラモデル作りと彫刻が似ている」と教えられ、美大への進学に目覚めたのです。浪人中に美大受験の予備校に通うと、そこの教師が支えになりました。
1浪の末、平成21年(2009年)に武蔵野美術大学彫刻学科に入学。昔から好きだったアニメの制作に目覚めました。仲間と泊まり込みで制作に打ち込み、コンテストに出品。コンビニの廃棄弁当を食べる貧乏生活もさほど気になりませんでした。初めてとなる、1歳年下の彼女もできました。
「美大独特のゆるい空気は居心地がよかったです。大学の4年間は充実していました」
しかし、社会人になるとその充実感は徒労感に塗り替えられます。第三の試練です。最初にアニメーターとして仕事をしたアニメ制作会社が「ブラック職場」だったと言います。
上野さんによると、アニメーターは個人事業主としてアニメ制作会社と契約を結びます。1枚仕上げると何円という出来高制で給与が決まるのですが、単価が極めて低いそうです。
月に何日も泊まり込んで仕事をしても、月給2万7千円にしかならなかったこともありました。最低補償額は3万円のはずですが、そこからアニメスタジオの使用料として1割引かれたそうです。
シャワーすら浴びられず、泊まり込むアニメーターがたくさんいました。「酸っぱい臭い」が、スタジオには充満。男性のみならず、女性までも「ひげ」が生えていたことを記憶しています。4カ月で辞めました。
「あのお金では生活できません。後悔はありませんが、その後、職を転々とすることになってしまいました」
実家に戻る選択肢はないことから、ともかく生活費を稼ぐようにしました。
プラモデル雑誌編集部と舞台美術を手がける会社で、それぞれ10カ月と1年アルバイトをしました。うまく経ち振る舞えず、正社員への登用には至りません。
「稼げる仕事に就くための知識を得たい」。奨学金100万円を借り、夜間に学べる建築の専門学校に入学しました。平成27年(2015年)4月のことです。同時に老人ホームで派遣社員として働き始めました。
昼間は老人ホームで働き、夜に専門学校で学ぶ。ダブルタスクは厳しいけど、納得のいく忙しさでした。社会人生活は3年目で安定するかに思われましたが、今度は私生活で痛い思いをすることになりました。
学生時代から付き合っていた彼女にふられたのです。お互い社会人になって環境が変わりイライラすることが多く、衝突が増えていました。それでも別れるとは思ってなく、初めての彼女だっただけにショックは大きいものでした。
寂しさから夜遊びに走ります。
ナンパはもちろん、女性と一緒に飲める相席居酒屋、キャバクラ。さらに直接の記述をためらう、過激な風俗店にも頻繁に出入りしたそうです。第四の試練の始まりです。
奨学金100万円に、夜遊び代の借金が加わります。第五の試練も背負うことになりました。
「寂しさに勝てませんでしたが、もう少しやりようがあったかもしれません」
夜遊びはお金がいよいよ苦しくなり、さすがに飽きが来た昨春まで2年近く続きました。
夜遊びを始めたタイミングの2015年夏、上野さんは5カ所目の職場として設計事務所に入社しました。その事務所にいたフィリピン人従業員と共同生活を送ることになりました。
4LDKの部屋に上野さんとフィリピン人6、7人。一緒に生活したフィリピン人の多くはアクション映画とハードロックが好きで明るく、話し好きだったそう。仕事だけなく、時に一緒にバーベキューを楽しみました。
「トゥヨ」と呼んでいた日本のクサヤかそれ以上の激臭がする干し魚には苦しめられました。それでも「他はいい思い出が多いです。フィリピン人の明るさを日本人も学んだ方がいいですよ」
しかし、そこもほどなく辞めてしまいます。時に暴言を吐く、ワンマンの社長に堪えきれなくなったからです。昨年5月、レンタカーに私物を積み込み、共同生活の部屋を引き払いました。「夜逃げ」同然だったと言います。六つの試練コンプリートです。
そして、大学時代に一緒にアニメをつくっていた先輩、金子怜史さん(30)のもとに転がり込みました。
今は借金を返しながら、アニメに打ち込む日々。落ち着いたとはいえ、なぜ、風俗の話も含む自身の「回り道」について、赤裸々に語るのでしょう。
私の疑問に、上野さんは次のように答えてくれました。
「日本社会は職を転々とする僕みたいな人には、とても厳しいです。ですが、回り道をすることはそんなに悪いことなのでしょうか。うまく生きられなくても、生きている人間がいることを知って欲しい。だから包み隠さず話す覚悟ができています」
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