お金と仕事
営業職になったバドミントン元全日本王者 非エリート選手のその後
スポーツの世界で五輪や世界大会を舞台に活躍できる選手はごくわずかです。限界を感じた選手は様々な選択を迫られます。バドミントンの強豪、日本ユニシスでキャプテンをつとめた福井剛士さん(40)は、けがによる引退後、畑違いの営業職に進みます。誰一人賛成しなかった選択でしたが「選手時代の10年より引退後の10年の方が成長できた」。転職や副業が当たり前になりつつある時代。「五輪に一歩届かなかった」選手のセカンドキャリアを聞きました。
出身は大阪府平野区瓜破(うりわり)で、10歳でバドミントンを始めました。瓜破はバドミントンの強い地域で、男女問わず五輪選手候補が数人出ていました。周りでは運動神経の良い人の多くはバドミントンをしていましたね。
大学進学は、高校時代に全国大会ベスト8以上の人たちは関東の大学に行くというのが王道でした。当時の大学のバドミントンのレベルでは、関東と関西を比較すると圧倒的に関東のほうが強かったんです。
僕の成績は最高でベスト16。当時、全国NO.1と自分との違いを考えました。何が勝っていて何が劣っているのか自分なりに分析しましたが、上位選手を過大評価し過ぎたあまり、挑戦する気持ちにブレーキをかけていたのかもしれません。
その時は、そこまで自分に実力があると思っていなかったので、身の丈にあった関西の大学で地に足をつけようと思い、馴染みがあった監督と同じ、近畿大学へスポーツ推薦で進学しました。
4年間はバドミントン漬けの日々でした。バドミントンを取ったら自分には何が残るのだろうという思いがあり、その不安は徐々に膨らんでいきました。
大学3年生になると、全国大会上位の学生には実業団チームから声がかかり始めます。僕は関西ではトップでしたが関東の人に比べたら実力は劣り、実業団から声をかけてもらえるポジションにいなかった。
それでも、就職先を社会人一部リーグに所属する実業団チームへ入る方向に舵を切りました。監督や先輩などの伝手を頼りに、順番に売り込みをしていきました。
卒業も近づいてきて、声をかけてもらった会社の一つに就職しようと思っていた矢先、突然日本ユニシスから声がかかったんです。日本ユニシスは強いチームだったので、その時は自分には無理だと思って選択肢にありませんでした。
別の選手が辞退したのか急きょ、僕が繰り上がったのだと思います。オファーをもらって嬉しい反面、強豪チームに入ってやっていけるのかという不安が強く出ました。
家族や監督、友人に相談したところ、「こんな強いチームに呼んでもらえるチャンスなんてない」と背中を押されました。悩んだ末、せっかくだったら自分の可能性を引き出せるチームで試してみたいと思うに至り、2000年に日本ユニシスに入社することにしました。
バドミントンが仕事とはいえ、給料をもらっている身です。ビジネスの面で会社に貢献できないのであれば、インプットを増やそうと思い、総務の仕事で役立つ衛生管理者の資格の取得や、ITの勉強などに専念しました。
オラクル、基本情報技術者、初級アドミニストレータなどの資格試験も受けましたね。
バドミントンのほうは手応えを感じていました。国内外の大会で実績を出して選手人生でピークを迎えていた矢先、27歳の時に膝のケガをしてしまいました。
その時、手術はせずに、引退までの残り時間を育成に力を入れることにしました。当時はキャプテンだったため、個人だけでなく、チーム力を上げたり後輩とコミュニケーションをとったりすることも大事だと思ったからです。自分の成績よりも、後輩や新人選手のランキングを上げることを第一に考えました。
1年後、自分の気持ちが固まった上で「引退をします」と監督に伝えました。突然戦力外の通告を受けたわけでなく、話し合って納得した上での結論だったので、スッキリと引退できました。
もし、選手生活にこだわっていたら、心のどこかで不安を感じながらもやり続けていたと思います。それも一つの選択ですが、引退後の人生のほうが長いので、競技を続けながらも将来は何をしたいのかも同時にきちんと考えるべきだと思います。
28歳でバドミントン選手を引退しました。きっかけは膝のケガだったので、バドミントンをまだ続けたかったという気持ちもありました。一方で、早く引退して“社会人”にならないといけないという思いもありました。
22歳で事実上の社会人になっても、毎日バドミントンをしていたので、感覚は学生の延長線上にいた感じでした。世の中のことをほとんど知らないので、国内の大会で優勝したり、国際大会で3位に入ったりしても、将来の不安は消えなかったですね。
五輪に出場していたら違っていたかもしれないですが、そうではなかった。僕が全日本で優勝した時は五輪が終わった翌年でした。
引退を決めて「辞めます」と宣言してからは多くの人に声をかけてもらいました。会社に残るのか、退職してコーチになるのか、はたまた母校の大学の職員になるのかなど複数の選択肢がありました。
相当迷いましたが、最終的に出した結論は、「バドミントンから離れないといけない」ということ。ビジネスの面で、本当の社会人になりたかったんです。
引退後もバドミントンに携わる仕事に就いたら、バドミントンの世界でセカンドキャリアを歩むことになります。監督になろうが、コーチになろうが、自分の意見が通る世界にいると、自己成長が望めないと思いました。
自分の意見が全くとらない世界で、自分がどれくらいできるのかを試してみたいと思った結果、日本ユニシスに残って仕事をしていこうと思ったんです。
正直、日本ユニシスの事業をよく知りませんでしたし、世の中の動きや経済の流れなども把握していなかった。自分なりに調べて、商売の知識を身に付けるためには営業が一番の近道だという答えにたどり着き、営業を希望ました。
周りから反対されました。第一に、引退後に日本ユニシスに残ることから疑問視され、さらに、営業に行くという選択に関しては、先輩、OB、両親などほぼ全員から反対されたのをよく覚えています。
周りは皆応援してくれると思っていたので、なぜそんなに反対されるのか理解できませんでした。今改めて考えると、バドミントンしかしてこなかった人間なので、別の世界にいったら苦労すると心配されたのだろうと思います。
反対されても自分の意志は変わりませんでした。「やってみないとわからない」という気持ちが強く、自分の意見が通用しないところで挑戦したいという思いが勝りました。
希望が叶い、営業に配属になってからは新入社員たちと一緒に、名刺の渡し方や電話の受け答えなどの研修から始めました。年齢などに対するプライドはありませんでしたね。
自分が成長できるかどうかが重要だったので、周りからどう思われるかは大事ではありませんでした。人からの評価を気にする性格だったらバドミントンの道に進んでいたと思います。
長年スポーツをしてきた人間なので、周りからは「何かすごいものを持っているんだろう」という目で見られていました。でも、何もないんですよ。たまに質問しようものなら突拍子もないことを聞いてしまい、恥かしい思いを幾度もしました。
そうするともう質問をしたくなくなり、心を閉ざしてしまいそうになりました。でも、これではダメだと思って初心に返り、くらいつきました。
そこで取り組んだのは、わからないことは全てその場で聞くことと、必ず自分の頭で考えて、意見を言うこと。会議中に出てきたわからない言葉などは全部メモをして後で調べたり、聞いたりすることを2年ほど続けました。
スポーツ選手でも受け身で指示待ちの人は成長しませんし、一流選手にはなれないと思います。指示されたことを完璧にこなすのではなく、自分なりに考えて工夫して、自分なりのアウトプットをすることが大事です。
「考える力」はどういう戦術で戦えば相手に勝てるのかを考えていたのと同じプロセスでした。まずは目的を明確にし、それを達成するために、どういう考えを持ってアクションすればいいのか、毎日考えるようにしました。
資料一つ作るにしても、最終的に誰が確認するのかを把握し、その人の目線で言葉を選んだり体裁を整えたりしました。まずは最終アウトプットをイメージ(ゴール)し、そこから逆算してアクションをおこします。ゴール(目的)を見失わないようにメモし、4コマ漫画のように進め方をラフに考えていきました。
今振り返ると、バドミントンをしていた10年より、引退してからの10年のほうが成長したと思います。全て自分で考えて、行動してきた10年だったので。日本ユニシスのバドミントン部の後輩たちも会社に残って欲しいというのが正直気持ちです。
ITは自分には無理と、勝手に壁を作ってしまわずに、僕みたいな生き方もあると思ってもらえたら嬉しいです。先輩として道筋を作っていければ良いなと思っています。
【プロフィール】
福井剛士(ふくい・つよし)1978年1月生まれ。10歳でバドミントンを始める。瓜破西中学校、成器高校(現:大阪学芸高校)を卒業後、近畿大学経済学部に入学。2000年に日本ユニシス入社。04年全日本社会人大会ダブルス優勝。28歳でバドミントンを引退し、営業部へ。現在は法人営業を担当している。
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