話題
原発事故でリヤカーハウス暮らしに…ベテラン溶接工の「震災後」
「仮設住宅は去年10月に閉鎖されましたが、私はその1カ月前に仮設住宅から追い出され、行くあてがないので致し方なく自作でリヤカーハウスを製作し、車中泊をしています」。福島第一原子力発電所の事故から7年が経とうとしていた3月上旬、こう書かれたメールが投書欄の窓口に届きました。iPadから送られたメールには写真が添付されていました。メールの送り主の人生を知りたくなり、福島県を訪ねました。
4月のある日、JR東北線の本宮駅で待ち合わせました。私が乗降客でごった返す待合室を見回していると、1人の男性が声を掛けてきました。
川上哲治さん(60)。黒っぽいウインドブレーカーに作業ズボン。モスグリーンのリュックを背負い、第一印象はどこにでもいる、まだまだ現役世代という感じでした。
「あそこに見えるのが、リヤカーハウスです」
自称リヤカーハウスは、月極め駐車場の乗用車の停車スペースにきっちり収まる、小さな車輪4つを備えた倉庫のようなたたずまいでした。大きさは幅1320ミリ、長さ2320ミリ、高さ2070ミリ。
「鋼材買って、切ったり溶接したりする道具はリースをして……。タイヤ1個2万円しました。1個200キロまで大丈夫だから800キロ近くまで載せられますよ」
角パイプで骨組みを、住宅の外壁材として使われているサイディングボードで壁を作ったといいます。
「でもね、冬、結露がひどくてね。結局、キャンプで使う銀色の防寒シートを張りました」
川上さんは、苦笑いしながら説明してくれました。
ドアにはレースカーテン、左右の内壁には日用生活必需品がぎっしりぶら下がっていました。上部の四隅には通気口があります。暖房や電気はありませんが、高反発のウレタンマットや羽毛ふとんを積んでいました。
リヤカーハウスというだけに、人力で引けると思われるかもしれませんが、私が前後に動かそうとしてもびくともしません。
「ここの月極め駐車場を契約して運び込むのも、ユニック車(クレーンが付いているトラック)でないと運べないので、地元の建設会社にお願いして有料で運んでもらいました」
川上さんによると、駅前の月極め駐車場にリヤカーハウスを移動したのは、今年の3月末でした。実はそれまで、東日本大震災の被災者のために本宮市内に設けられ、昨年秋に閉鎖された旧高木応急仮設住宅がある本宮運動公園の敷地内に置いていたそうです。
福島第一原発から半径30キロ圏内にあり、全居住者が避難を余儀なくされた浪江町が管理し、町内で被災した人たちが入居していた仮設住宅です。
川上さんは2011年3月11日、福島第一原発の構内で、溶接の仕事をしていて被災していました。
「あの日はね、福島第一原発の地下にある配管を支えるための溶接工事をトンネルのようなところでしていたんですよ」
あの日の午後は、放射線が高い場所での作業に備え、プレハブの事務所で放射線管理の教育を1時間ほど受けていたそうです。その後、バスで構内を移動し、再び作業現場近くに着いた時、激しい揺れに襲われました。
「うそー」
川上さんは思わず声をあげたそうです。今でも当時の様子は鮮明に覚えています。
「映画のセットを見ているようでしたね。1号機の外壁がポロポロ落ちだしていました。貯水槽のバルブが壊れ、噴水状態でした」
何とかバスでプレハブの事務所に戻りましたが、その後解散となり、オートバイで間借りしていた浪江町の知人宅を目指しました。北上していると、防災無線の放送が流れてきました。
「津波がくるので、早く避難してください」
内陸側へハンドルを切りました。知人宅に着くとテレビで津波のニュースが流れていました。12日、「ドーン」という大きな音が聞こえました。
「えらい音だな」
「もし原発なら30キロ圏内はダメだな」
その後は、車で葛尾村の知人の親戚宅、そこでもサイレンがなると福島市内のあずま総合体育館といったように、避難先を転々としました。
今も大切に保管している被災証明書と罹災証明書の現住所欄を見せてもらうと、浪江町の知人宅の住所が書かれ、馬場有町長の公印が押されていました。
先の見えない中、すし詰め状態のあづま総合体育館での避難生活。プライバシーがなく、食事をもらう日々に、疲れていました。
「ずっとここにいたら、頭がおかしくなる」
川上さんは、いつも溶接の出稼ぎの仕事をもらっていた会社に電話をしました。
「仕事ありますか」
仕事は数日後見つかりました。福島第一原発でした。
放射線管理手帳の記録には、5月3日から福島第一原発で作業をしていたことが記されていました。お盆休みの後は、敦賀の原発へ出稼ぎに出ました。
東電からの賠償金は、震災後まもなく仕事を再開し、また川上さん自身が所有する土地建物がなかったため、1年間で134万円ほどだったそうです。
浪江町から仮設住宅に入れるという連絡を受け、住居はなんとか確保できましたが、1年が過ぎると、出稼ぎの仕事で声がかかる数が大きく減りました。
「このまま仮設にいられるのかな」
生活に窮し、わずかな期間でしたが、本宮市の生活保護を受けたこともありました。ただ、生活や仕事への制約が煩わしくなり、「辞退した」といいます。
青森、宮城、福島、秋田……。ここ数年は火力発電所を中心に、1年に2カ月程度しか出稼ぎの仕事が入らない状態だと嘆きます。
そんな川上さんに、さらなる試練が訪れたのが2017年初夏でした。
浪江町は、応急仮設住宅の居住者が大幅に減ったことから集約しようと動き出しました。川上さんが入居する高木応急仮設住宅も9月末で閉鎖しようと、自治会に説明しました。
ただ、出稼ぎに出ていた川上さんはその説明会に出られず、後日、ポストに入っていた書類で詳しいことを知りました。
「どこに行きますか?」
こう尋ねる意向調査に、川上さんは「行くところがないので、リヤカーに荷物を載せて路上生活になります」という趣旨の回答を書いたといいます。
この頃になると、応急仮設住宅を管理する浪江町だけでなく、本宮市の生活支援員らも本格的に訪ねるようになりました。
川上さんは浪江町で被災し、浪江町が管理する応急仮設住宅に入っていましたが、2015年2月に住民票の登録をいわき市から本宮市に移し、本宮市の国民健康保険に入っていました。つまり、応急仮設住宅が閉鎖されれば、本宮市が生活支援や保護する責任を負うことになります。
本宮市役所の浪江町支援チームや生活支援スタッフたちは、市営住宅の入居を勧めましたが、川上さんは、市営住宅にせよ、復興住宅にせよ、保証人と敷金の確保が大きなハードルだと感じていました。
「出稼ぎが減って、定期的にお金が入ってくるわけではないしね。お金が払えなくなったらと考えると気が引けちゃう」
夏になると、応急仮設住宅の空きスペースに、自分で設計し、自慢の溶接技術を使って作り始めた4輪のリヤカーハウスが完成しました。
とはいえ、想定外だったのが、リヤカーハウスの重量です。
「平坦な場所なら手でやっと引けるぐらい。ブレーキもないし、とても公道では動かせないよね」
応急仮設住宅があった運動公園内を移動したときも、役所の人たちに押してもらったほどです。
2011年3月、福島県内で沿岸部から内陸部に避難してくる人たちを取材していた私は、この問題を伝えるにあたって、川上さんがリヤカーハウスに行き着くまでの人生も理解する必要があると感じました。
川上さんは淡々と話し出しました。
「いわき市の小名浜で育ちましたが、おやじが飲んで暴れてね。19歳のとき、家出をして沖縄に行きました。ホテルのウェイターや鉄工所のアルバイトをして暮れしていました。食うのに困るため、溶接の技術がいかせる仕事が神奈川県や栃木県の自動車工場であると、期間工として出稼ぎをしていました。30代半ば、沖縄の居酒屋でホール主任をしたこともありました。ただ、もの作りが好きでね。鉄工所の溶接の日雇いのアルバイトに戻りました」
年齢を重ね、40代後半になったある日、いわき市内で暮らす異父兄を訪ねたそうです。
「働くところがないんだ」(川上さん)
「それなら俺のところに来たら」(異父兄さん)
異父兄は、原子力発電所うや火力発電所、ボイラーなどの溶接の仕事に携わっていました。
「仕事がある時に呼ばれ、1~2カ月仕事をやって、その後3カ月仕事がないとか……」
敦賀原発や福島第一原発、東海第二原発といった原子力発電所の溶接現場を主に回ったといいます。2009年に知人の浪江町の家に引っ越すまでは、いわき市内から出稼ぎに出ていたそうです。
川上さんは今、自嘲気味にこう話します。
「50歳を過ぎると定職を探すのは難しいですね。ワーキングプアだね」
今の生活は、2日に1回程度の割合で、1回100円の入浴施設に行って1日過ごし、他の日は公共施設のロビーで過ごしたり、タブレットが使える無料wifiがある商業施設で過ごしたりしているそうです。
食事は朝夕2回のカップ麺でしたが、最近はコンビニエンスストアでお弁当を買うこともあるそうです。寝る前にアイスクリームやプリンを食べるのを楽しみにしています。
「全国の発電所で溶接の仕事をしているという誇りは失っていない。そこまで自暴自棄にはなっていませんよ。次の仕事がまた来るんじゃないかなと思って過ごしています」
「追い出された」「仮設住宅が取り壊され、更地になれば、いずれ仮設住宅に置かれている住民票登録を職権で抹消する可能性があると言われた」と、川上さん言います。
浪江町生活支援課の居村勲課長と担当した志賀美樹係長に、高木応急仮設住宅の閉鎖について聞くと、こう説明しました。
「今回の応急仮設住宅の集約は、やっと復興公営住宅が完成して入居したり、持ち家を建てたりして、応急仮設住宅の入居者が少なくなったからです。ただ、どうしても期限までに出られない人もいます。こういう方には、集約しましょうと説明しました」
ただし、川上さんは出稼ぎによる長期の不在が重なり、説明が出来た時には「リヤカーハウスで旅に出る」という強い意思を示したそうです。
高木応急仮設住宅の閉鎖も9月末から10月末に1カ月延期されましたが、「鍵を返す」とかたくなだったといいます。
川上さんのライフスタイルは、仕事の声がかかれば全国の工事現場に出稼ぎに出る、という形です。ただ、こういうライフスタイルは、公務員や一般の人たちにはなかなか理解されにくいのかもしれません。
市営住宅を所管する本宮市建設課の渡辺兼野課長は「市営住宅も空いているので、正式な話があれば手続きを進めていきたいと思います。相談してくれれば何かしらいい方法があるはずです」と話します。
今年3月末で本宮市を退職した元白沢総合支所地域振興課長の小野間幸一さんは、川上さんの件で腐心した一人です。
「川上さん宅へは、社会福祉協議会の生活支援員と2人で見守りに回っていました。私が市役所を退職する前に、『私が市営住宅入居の保証人になってもいい』『書類の書き方が分からないというなら手伝うので、生活支援員に連絡を下さい』と伝えていました」
川上さんは、市営住宅や復興住宅の入居に関する一番の障害について、保証人と敷金を挙げました。
市営住宅でも復興住宅でも保証人は必要ですが、渡辺課長は「震災での避難者に関しては、条件を緩和して、身元引受人や連絡がつく人を書いてもらって、入居を促しています」といいます。
もう一つの懸念である、敷金や家賃の問題はどうでしょうか。
本宮市建設課で調べてもらうと、市営住宅も復興住宅も場所や広さなどによって家賃は違いますが、どちらが安いかというと微妙なようです。所得証明をもとに、基礎控除や所得控除をしたうえでの月収換算で家賃が決まります。この月収が低い方が家賃は安くなります。
例えば、市営住宅は、月収が0円から10万4000円の間だと、家賃は10500円。復興住宅は月収が0円だと家賃は8100円ですが、1円から4万円の間だと13700円になります。
浪江町役場や本宮市役所を取材した後、再び、川上さんを訪ねました。私が条件緩和や制度のことを説明すると、川上さんは何度もこうつぶやきました。
「俺、逆の受け取り方していて、追い出したくて言われているのかなと思っていたときもあった」
この1年間の関係者間の正確なやりとりは不明ですが、川上さんは次のように言葉をつなぎました。
「そういう話を仮設住宅が閉鎖されるという話を持ってくる前にしてくれなかったのかな。それならわざわざ大金をかけてリヤカーハウスを作る必要はなかったのに……」
川上さんの昨年度の仕事は、5月中旬から6月中旬と10月中旬から11月中旬の各1カ月と、今年2月上旬のみ。すべて火力発電所です。震災直後の原発の震災対策の応急的な工事は一段落したようです。
「電力は繁忙期があるので、その間の春と秋に集中するんです。その時しか、止められないから」
「溶接の仕事は天職だと思っていますよ。楽しいし、やりがいがあるので」
川上さん、そして浪江町や本宮市の関係者を取材する中で、何度も浮かんだ言葉あります。
「せっかく、震災や原発事故をここまで乗り越えてきたんです。これからの命も大切にしましょう」
社会の中には、サラリーマンや公務員のように、きちっとした生活のリズムや社会保障のもとで暮らしている人ばかりではありません。川上さんも、1カ月以内の短期の雇用の連続です。これも、雇用主側の事情です。
堅苦しいことを言えば、川上さんが納税をしているのか、年金保険料を納付しているのか、といったことが気になる人もいるでしょう。また、行政機関がそこまでする必要があるのか、保護する必要があるのか、と考える人がいるかもしれません。
川上さんも難しい話しに、「分からない」「もういい」とすぐ諦めてしまうのではなく、多少手間であっても、小野間さんのような丁寧な対応をしてくれる人と話をして、一日でも早く公営住宅に入居する努力が必要だったのかもしれません。
私は今でも思い出します。
福島第一原発が水素爆発をした後の3月下旬、家族を避難させ、福島第一原発に戻っていく作業員の人たちの姿や、その年の夏に猪苗代町のロッジに2次避難する中高年の男性被災者のぼうぜんと日々過ごす姿……。どちらも浪江町の方がいました。
川上さんも今年61歳になります。体を壊して自治体の保護を受ける前に、終のすみかを得られればと思います。
ゴールデンウィークの初日、川上さんにその後の状況を電話で聞いてみました。
4月末から1カ月弱、出稼ぎに行くことが決まっていましたが、その直前、本宮市社会福祉協議会の生活支援員とばったり会って、市営住宅や復興住宅のことを聞いたそうです。
すぐ小野間さんらも交えて相談をしました。
「復興住宅なら、できれば雪が降らないいわき市の方がいい」
こう希望を伝え、一番競争率が低そうな復興住宅の抽選申し込み書類をつくりました。住所は、社会福祉協議会を「気付」にしました。不安だった保証人欄の記載についても、正式な契約の際は、小野間さんが「名前なら貸しますよ」と言ってくれたそうです。
出稼ぎから戻った頃、抽選が行われます。
朝日新聞の「声」欄では、みなさんの投稿を募集しています。
テーマは、身近な話題や意見、提案など自由です。投稿はメール、FAX、手紙で500字以内。匿名は不可とします。
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〒104-8661東京・晴海郵便局私書箱300号「声」係
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