感動
「がれきの写真は見飽きた」の言葉に……記者を辞め被災地の職員に
故郷を襲った東日本大震災の後、一人の後輩ジャーナリストが新聞社を去りました。復興に寄り添うって何か? 悩んだ彼女は、身近な人の死を経験した人を支援するグリーフケアに飛び込み、今は被災地の市役所で復興に携わっています。震災から7年、「元ジャーナリスト」が今伝えたいことは何か? 話を聞きに宮城県気仙沼市を訪ねました。
話を聞いたのは、宮城県気仙沼市役所に勤める中居慶子さん(36)です。
震災発生当時、中居さんは朝日新聞京都総局に勤務していました。
「東北で震度7の地震です」
2011年3月11日、翌月にある統一地方選挙の取材を終え、総局に戻った中居さんのところに、後輩が飛んできました。
気仙沼の海の目の前にある食品加工会社に勤める母親の携帯電話はつながりません。テレビで津波警報が伝えられる中、会社の電話にやっとつながりました。
「出勤している人はみんな無事です。今から避難します」
こう聞いて一安心と思っていると、母親からメールで写真が送られてきました。
「大丈夫じゃないよ」
建物の屋上から写した津波が街を襲う写真でした。
その後のテレビに映し出された空撮の映像は、母が勤めていた会社がある海沿いの一帯で、火災が発生している映像でした。
「つらかったですね。母もひとりぼっち。13日になって携帯電話がつながり、声を聞いて安心しましたが、これまで子どもの前で泣かなかった母がぼろぼろと泣いていたので精神的な面でとても心配でした」
中居さんは、子どもの頃に父を亡くし、兄は高校卒業とともに仙台の学校に通い、就職していました。
気仙沼に行くことができたのは、統一地方選挙が終わった後のゴールデンウィーク。1週間、震災取材として現地を歩いて感じたことがありました。
震災発生から1カ月半が経過し、主要な道路はがれきが取り除かれていました。
高校時代の通学路や子ども時代に支えてくれた地域の人が暮らす商店街などを回り、知り合いの生死や避難状況を確認しながら、何を伝えればいいのか、自問自答が続いたそうです。
「本当は母と時間を共にしたいと思いました。ジャーナリスティックでなかったかもしれないですね。4月下旬になると、何となく報道し尽くされている感があって、今まで書かれていないことを書くことが難しいなと感じてしまいました」
当時は多くの記者が被災地に入り取材にあたりました。私も震災発生後の3月に2週間、福島で取材をしました。
私が話を聞いた被災者の多くは、何かを伝えて欲しいと思って取材に応じてくれているものでした。それを取材として受け止めた私たち記者も、なかなか掲載に至らずジレンマを抱えていました。
新聞のページは限られています。当時は、新聞紙の確保も厳しく、ページ数の制約もありました。
何より、岩手県、宮城県、福島県と被災地は広範囲にわたり、多くの記者がかかわっていたため、当然、大きな被害がある地域や状況、新しいニュースが優先され、競争率が高いのは当然でした。
ただ、中居さんが私を含め他の記者たちと決定的に違ったのは、「地元に帰って、何かしないといけない」との思いを強くしたことでした。
中居さんは大阪に戻った後日、何げない言葉を耳にしてびっくりしたそうです。
「もうがれきの写真は見飽きたから」
日本中、絆や寄り添うといった言葉があふれる中、被災地と距離がある地域の人たちの本音を垣間見た瞬間でした。
このような違和感が積み重なり、1年後、「ニュースを追っているマスコミでは、長くかかる復興に寄り添えない」と決断し、ジャーナリストを辞めました。
決断に1年を要したのには、理由がありました。高校と大学で借りた奨学金800万円の返済があったからです。
地域の人たちや親戚の人たちにここまで育ててもらったという感謝も忘れてはいませんでしたが、「ボランティアや薄給では被災地支援ができない」というのが本音でした。
最初の転身先は、東京にある「NPO法人自殺対策支援センター ライフリンク」。震災で家族を失った人たちのグリーフケアをするプロジェクトに、有給スタッフとして参加しました。
これまで培った自死した人の遺族ケアのノウハウが使えると思い、福島、宮城、岩手の3県で遺族らが語り合う場を設けましたが、簡単ではありませんでした。
「そんな中、少数ではありますが、時折顔を出してよりどころにしている人たちがいました。地域の目を気にして、勇気を出して語り合う場に来られないけど、必要とされている感覚がありました」
医療や介護の取材を続けている私も、岩手、宮城、福島の各県で活動した「心のケア」チームの医師や報告会、ケアを受けている人たちを取材したことがありました。震災から半年後ぐらいの時期です。
福島県猪苗代町のロッジに避難していた浪江町の70代の女性はこう言っていました。
「最初は部屋に閉じこもりがちだった。希望もなにもない。避難先の移動、移動で働く意欲もなくなる。農家は自分の米を食べたい」
福島や岩手で活動した「心のケア」チームの医師からは、派遣期間中、避難所を回ったけど、1人も受診や相談に来てくれなかったという話も聞きました。
周囲の目を気にしたり、「自分だけじゃない」と抱え込んでしまったりする人たちがいました。
メンタルヘルスや精神科、心療内科といった言葉に、東京など都会の人以上の抵抗感が住民の中にあったからかもしれません。中居さんの話を聞き、当時の状況について、あらためて考えさせられました。
2014年のお正月、気仙沼湾の海を眺めながら帰郷を決めました。
この時、目にとまったのが「東北未来創造イニシアティブ」というプロジェクト。
仙台市に本社があるアイリスオーヤマの大山健太郎社長らが代表発起人となって立ち上げた復興支援や人材育成です。まず、気仙沼で活動する有期雇用のスタッフに参加。2017年4月には、気仙沼市役所の職員募集に応募し、公務員となりました。
「高校生の時は、このまま気仙沼にいたら人生を選択できない、と思って自分で人生を切り開いてきたつもりでした。震災後、自分に能力があるのか悩んでいましたが、気仙沼で暮らして、仕事をして、税金を払って、家族を増やす人がいないとまずいな、と思ったんですよね」
見えない壁は、市役所職員として復興や地域振興に取り組んでからもありました。
「ちょいのぞき 気仙沼」
氷屋、漁具屋、造船所など漁師町ならではの仕事場を特別に訪ねるツアーの立ち上げで感じたことです。特に造船所の「ちょいのぞき」は人気があったそうですが、伝える側から伝えてもらう側になった中居さんは、メディアの現実を再認識させられます。
「地元メディア1、2社が、お知らせ記事を書いてくれました。ただ、観光振興の事業は、毎月行われます。2回目、3回目となると、なかなかメディアに取り上げられません。コンテンツを作れても、発信力が伴わないと成功しません」
中居さんがジャーナリストを辞める理由となった被災地の実態は、地元の公務員という立場に変わった今でも、変わっていませんでした。
実はこの企画、宮城県の「おもてなし観光大賞」を受賞しています。当初は、観光コンテンツとしての知名度がなく、内陸の岩手県一関市や宮城県仙台市の学校にお願いし、ちらしを配布してもらうといった地道な取り組みが欠かせませんでした。
「大企業がCSRで協力してくれるかもしれませんが、もう、『被災地』『復興支援』という言葉は使えません。観光にとって、三陸は地理的なハードルが高いですが、言い訳にはできません」
氷屋、函(はこ)屋、造船所、漁具屋。他の街にはない港町ならではの職場に潜入できるほか、漁師体験やツリーハウスなど自然を満喫できるあそびもたくさん!
朝日新聞には震災から7年経った今でも、多くの人から投稿が寄せられています。
多くは関東や関西の人たちですが、仙台市出身で今は神奈川県の大学に通う大学生(20)から気になるメールが届きました。私は、ジャーナリストの経験もあり、かつ母親が被災し、今は復興に携わる中居さんに意見を聞きたくなりました。
メールはこんな内容です。
中居さんが暮らす気仙沼でも、家族を失った人と失わなかった人、家を失った人と失わなかった人、仕事を失った人と失わなかった人がいます。関東や関西の人からみれば「同じ被災地」と思われている地域の中でも、被災の度合いによる複雑な住民感情を胸に抱いて暮らしてきました。
中居さんの母親も、仕事は失いましたが、家は高台のため無事でした。
私もこの7年、福島、宮城、岩手の医療や介護関係者を取材する中で、「被災地」や「復興」という言葉をいつまで使うのか、自問自答しつつ、使い続けています。
「復興住宅がすべて完成した」「防潮堤が完成した」「いつまでも被災地、被災者ということはどうか」と考える人もいるでしょうが、繰り返し書き続けなければ伝わらない、思い出せない、風化があるからです。
中居さんは「がれき」について、こう言っていました。
「記号としての言葉。『がれき』=大切なものではないと言っているわけではないのに、聞く人によってゴミという意味に聞こえてしまう。差異ですよね。私も『がれき』って言っちゃいますよ」
中居さんは、例え話として、ライフリンクでの活動で議論した「自死」と「自殺」の使い分けについて話してくれました。
「傷ついている遺族に配慮して『自死』を使うのはいいと思いますが、『自殺』という言葉をなくすことで、そこに追い込まれる壮絶な経過があるということが薄らいでしまうことは問題だと思います」
「『がれき』という言葉も、両面あるのかな。起きたことを社会に伝え、知ってもらうためには『自殺』という言葉も必要と思います。『がれき』という言葉も同じだと思います」
「被災地」という言葉も、気仙沼に戻って活動する中で、「地元の人が商品づくりをする時に、『被災地』の意識でいると成功しないと思います。それはもう商品を売り込む武器にならないので……」と感じています。
それでも街を見渡せば、こうも感じています。
「被災地は被災地。まだ仮設住宅に住んでいる人もいるし、津波の被害を受ける前にあった街は空っぽだから」
全国の若い世代に伝えたいことは何か? 中居さんは言葉を選びながらこう語りかけてくれました。
「震災はありましたが、それによって気仙沼には色々な人たちが集まってきて、色々なことが起きています。チャレンジしたい人、自分の力を試す人、いろいろいます。そういう働き方を知って欲しいし、協力して欲しいし、担い手になって欲しいと思っています」
そして自分の半生を振り返りながら、中高生へのメッセージをくれました。
「今は、ライフシフトの時代。大学を卒業して就職しても、その後の人生、キャリアを自分で切り開いていかなくてはいけない時代になっていますね。選択肢は限りなく広がっていますが、限りなく容易でない時代になっています。その時にある最大限の選択肢の中で、覚悟を持って取り組むことが大切です」
多メディア時代の注意点についてもこう考えていました。
「色々な情報があふれる中、真実を自分で見つけるしかない時代なのかもしれません。メディアが伝えていないこともあるからです」
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