連載
#3 東京150年
漱石や啄木が顧客、創業147年の理髪店 七三分けで勝負する4代目
移り変わりが激しい東京で、創業147年となる理髪店があります。「七三分け」が得意な4代目は81歳。高度経済成長を支えた丸の内や流行発信地の渋谷で、客の頭と向き合いながら街や時代の変化と共に歩んできました。(朝日新聞東京総局記者・向井宏樹)
いまは渋谷に店がある理髪店。森鷗外や夏目漱石、石川啄木……。顧客リストには名だたる文化人が名を連ねる。モノクロの写真に残る髪形は、七三分けだ。
「少し前まで男性と言えばこの髪形が好まれました」。リストの持ち主で「喜多床(きたどこ)」の4代目舩越一哉さん(81)が振り返る。1871(明治4)年創業で理髪店としては老舗中の老舗だ。
東京は当時、「東京府」と呼ばれその年の廃藩置県まで東を小菅県、西を品川県に囲まれた狭いエリアだった。創業は散髪脱刀令、いわゆる断髪令が出た年でもある。本郷に構えた店の前は旧加賀藩前田家の大名屋敷だった。「本日、髪を洋夷(ようい)にす。涙燦然(さんぜん)として降る」。幕末の藩主・前田斉泰(なりやす)は髷(まげ)を切り落とした後、一筆書き残したとされる。断髪を担ったのは喜多床の初代。斉泰の一文は惜しくも戦災で失った。
洋風3階建ての店舗。西洋風の髪形を生み出す喜多床は、文明開化の一翼を担っていた。やがて前田家の大名屋敷は旧文部省の用地となり東京帝国大学となった。来店するようになった教授や学生らの中に、漱石もいた。2代目の談話として、当時のやりとりが残る。
「先生、良いお天気です」。2代目が声をかけると「大きなお世話だ」と漱石。ただ、散髪の間は気持ちよさそうに寝ていたという。そんなこともあり「理髪店は頭と体を休めるところ」がモットーになった。
1922(大正11)年、店は区画整理で立ち退くことになった。新天地は丸の内。政財界人の社交場「日本倶楽部」のビルの地下に店を構えた。当時の外務省や鉄道省、陸軍士官学校にも支店を出し、客層も本郷時代とは様変わりした。
「緊張しましたねぇ」。59(昭和34)年、4代目の一哉さんがここで働き始めた。初めて担当した客は戦前、皇族だった男性。首相官邸へ出張して散髪したこともあった。
東京五輪の64年に日本倶楽部ビルが取り壊され、丸の内の別のビルへ移った。高度経済成長期、ビジネスの最前線で働く男たちがやってきた。「よく海外出張の話をしてくれた。みなさま自信に満ちあふれていました」と一哉さん。ピシッと分けた七三分けはサラリーマンの代名詞だった。
変化が訪れたのは75年。渋谷にも店を出した。明治時代には村だった渋谷は町から区に。都心と郊外の結節点として、特に戦後は新宿や池袋と並ぶ繁華街に発展した。73年の渋谷パルコ開店などで、「若者の街」となっていた。
それまで髪形にこだわる客は少なく「普通で」「いつもの」が定番だった。それが渋谷では長髪やパーマに。「今時の髪」は若いスタッフたちが手がける。
99年に丸の内店をたたんだ。仕事を抜け出し散髪するサラリーマンも減っていた。渋谷に移った一哉さんは「おしゃれに気をつかう人が多く、独特の雰囲気がある」。スマートフォンの普及に伴い、最近は希望する髪形を画面で提示する客も増えた。
変化を受け入れながらも、伝統を大切にしてきた東京の街。一哉さんが得意とする七三分けは、いまでも理容師国家試験の実技試験に課されている。一哉さんの手ほどきを受けた5代目で娘の千代さん(53)は「うまく七三に分けられず、父に厳しく指導されました」と懐かしむ。
「4代目にお願いしたいのですが」。ある日、若者から一哉さんに指名が入った。店の大半は年配客。「流行の髪形はできない。困ったなぁ」。不安まじりで尋ねると七三分けを望んでいた。「これなら得意分野だ」。ほかにも数人、平成生まれの常連ができた。「小僧時分に習った技術を生かせるのはうれしい。まだ負けられない」
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