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「アウトロー」サブちゃんの魅力 演歌にビートを入れた革新者

1973年7月、大阪・梅田コマ劇場で取材に応じる北島三郎さん
1973年7月、大阪・梅田コマ劇場で取材に応じる北島三郎さん 出典: 朝日新聞

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 キタサンブラックの馬主として最近何かと話題の歌手北島三郎さん。2月に大阪で、3月に東京で公演を開くなど、一昨年の頸椎(けいつい)手術以後、抑え気味だった歌手活動を今年は本格化させそうです。デビューから半世紀以上にわたり第一線で活躍する大御所。演歌の系譜から眺めると、「古きよき」日本の歌い手ではなく、「アウトロー的英雄性」の顔が見えてきます。サブちゃんの真骨頂とは何か? 大阪大学の輪島裕介准教授(近代日本音楽史)に聞きました。

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昨年12月の有馬記念で優勝したキタサンブラックをいたわる馬主の北島三郎さん
昨年12月の有馬記念で優勝したキタサンブラックをいたわる馬主の北島三郎さん 出典: 朝日新聞

――演歌の一般的なイメージとは?

「演歌は1970年代にメディアや音楽業界が『古きよき日本』『伝統的』などをイメージ付けして生み出した比較的新しい音楽ジャンルで、北島さんはその原型を作った歌手の一人と言えるでしょう」

「ただ、実は『ふるきよき日本』を直接テーマにした歌はそれほど歌っていないと思います」

「『古きよき』よりも、『なみだ船』(1962年)や『北の漁場』(1986年)のような、農林漁村の労働・生活の哀歓を歌ったものや、『ギター仁義』(1963年)や『帰ろかな』(1965年)のように、故郷を離れ、都会に向かった人々の生活とそこでの感情の起伏などを表現した歌が多い。むしろそこにこそ、真骨頂があります」

1962年、上野駅に着いた新中卒者の集団就職の波
1962年、上野駅に着いた新中卒者の集団就職の波

――北島さんには「与作」というヒット曲もありますが?

「もちろん、『与作』(1978年)は『ふるきよき日本』のイメージを典型的に示しているのは確かです」

「ただ、これはNHKの素人作曲番組「あなたのメロディー」の優秀作品を、他の歌手と共作したもので、その時期、千昌夫さんの『北国の春』(1977年)などによってすでに固まりつつあった「演歌=故郷」のイメージに追随するものです。私は北島さんの真骨頂ではないと思っています」

大先達、三橋美智也との違いは・・・

――北島さんの魅力は「古きよき」路線ではない?

「北島さん自身、北海道・函館に近い知内町の出身で、歌手を夢見て上京するも、東京・渋谷で『流し』の演歌師として長く下積みを経験してきたという背景があります。都会に出てきた地方出身者や地方在住の庶民の心をとらえた、という点は忘れてはなりません」

「農村から都会に出てきて、望郷や都会生活の辛苦を歌う歌手としては、すでに三橋美智也さんという大先達がいます」

「ただ、三橋さんが、純朴で品行方正な農村出身の青年というイメージだったのに対し、北島さんは、当時の夜の街におけるアウトローの一種である『流し』のイメージを強力に押し出している点で大きく異なるのです」

「おんな船頭唄」「達者でナ」などのヒットで知られ、昭和30年代の日本の歌謡界をリードした歌手、三橋美智也。写真は1970年代。
「おんな船頭唄」「達者でナ」などのヒットで知られ、昭和30年代の日本の歌謡界をリードした歌手、三橋美智也。写真は1970年代。

――三橋さんは純朴、北島さんはアウトローだと?

「毎年の座長公演での芝居で演じていた清水次郎長や国定忠治ら、近代日本の庶民が支持したアウトロー的英雄の系譜に連なるものがそこにはあるわけです」

「これらは高度成長期で社会が都市化、近代化する中で否定された価値観ですが、北島さんは痛快無比に歌い、時代の流れに乗りきれなかったり、反発したりする人々の支持を集めました」

演歌に強力ビート 音楽的革新者だった

――楽曲の特徴は?

「演歌は1980年代、カラオケ文化の普及で「歌うための音楽」に転じ、音楽的革新は止まりました」

「だが、『まつり』(1984年)で当時世界的に注目されはじめたばかりのアフリカのポップスを思わせる強力なビートを盛り込むなど、果敢に音楽的挑戦をしています。そんな革新者の一面も忘れてはなりません」

「80年代に限らず、有名な『函館の女』(1965年)もラテン的なリズムが自然に溶け込んでいます」

2015年、代表曲「まつり」を熱唱する北島三郎氏
2015年、代表曲「まつり」を熱唱する北島三郎氏 出典: 朝日新聞

演歌はあくまでも近代の産物

――演歌とはそもそも何でしょう?

「聴衆の演歌離れが叫ばれています。だからなのか、演歌というジャンルを、漠然とした『日本らしさ』や『伝統』のイメージに結びつける動きが最近ありますよね」

「しかし、演歌はあくまでも近代の産物です」
 
「『演歌』の語源は、明治時代の自由民権運動と結びついた『演説歌』ですが、大正以降、盛り場で流しが歌う艶っぽい歌、という含意で『艶歌』という当て字も使われるようになりました」

「それが、昭和40年代を通じて流行歌(歌謡曲)の一ジャンルとして別の形で再興するのですが、その初期には、むしろ『流し歌』としての『艶歌』のイメージが強調されており、(冒頭でも述べたように)「古きよき日本」に近いイメージがあらわれるのは1970年代に入ってからです」

1923年、東京で行われた普通選挙を求めるデモで終点の坂本公園(現・坂本町公園)で、閉会を宣言する自由民権運動の闘士・河野広中(中央の老人)と尾崎行雄(その左)
1923年、東京で行われた普通選挙を求めるデモで終点の坂本公園(現・坂本町公園)で、閉会を宣言する自由民権運動の闘士・河野広中(中央の老人)と尾崎行雄(その左) 出典: 朝日新聞

「北島三郎的なものとして再定義」を

――「演歌」における北島さんの存在とは?

「演歌の歴史を考慮した場合、むしろ私は、演歌を民衆的なアウトローの『流し歌』としての『艶歌』のイメージに引き戻すことが重要ではないか、と思います」
 
「つまり、艶歌を『北島三郎的なものとして再定義する』ということです」

「農林漁村の労働・生活の哀歓や、故郷を離れた者の漂泊と望郷の心情。または、そういったものが仮託される対象としての股旅時代劇のヒーローや物語類型……。これらを、懐古趣味ではなく、現代日本の個別具体的な経験や記憶と結び付け、継承することが必要な時ではないでしょうか」

 念頭にあるのは、例えば、アメリカのヒップホップがジャズやブルーズのようなアフリカ系アメリカ音楽の歴史を参照し、また逆にジャズやブルーズの若い音楽家がR&Bやヒップホップの要素を取り入れる、といった状況です。

ビヨンセ(左)と共演するヒップホップ界のスター、ケンドリック・ラマ―。ヒップホップは、米国を代表する音楽ジャンルに成長した
ビヨンセ(左)と共演するヒップホップ界のスター、ケンドリック・ラマ―。ヒップホップは、米国を代表する音楽ジャンルに成長した 出典: ロイター

「そんな仕方で、演歌が保護と保存の対象となる文化遺産としてではなく、真に『ポピュラーな』、つまり民衆的な真正性をもち、なおかつ人気のある音楽ジャンルとして再生することを願っています」

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