感動
記者が見た無名時代の村田諒太 「なんて威圧感のない格闘家なんだ」
10月に世界ボクシング協会(WBA)ミドル級王者になった村田諒太選手(31=帝拳)ですが、2012年ロンドン五輪までは無名の存在でした。当時の村田選手を取材した感想は、「なんて威圧感を感じさせない格闘家なんだろう」でした。(朝日新聞秋田総局〈2012年当時は東京スポーツ部〉・山田佳毅記者)
村田選手をはじめて取材したのは、2011年の秋でした。ボクシングの世界選手権のミドル級で銀メダルを獲得し、「ボクシングでメダル候補が現れた」ということで、取材依頼をしたのです。
当時、私の担当は柔道、レスリング、そしてボクシングでした。毎回のようにメダルを獲得する柔道やレスリングと違い、ボクシングは1968年メキシコ五輪以来、メダルから遠ざかってました。取材に行く機会も、ほかの二つと比べ、圧倒的に少なかったのがボクシングでした。
アマボクシング界では有名だった村田選手も、世間的にはまだ無名でした。
当時、村田選手は、東洋大の職員でした。取材に行った日、大学構内の練習場で、村田選手は1人でした。リング上でシャドーボクシングをし、パンチングボールを打ち、ときおり気合の入った声を発しながらサンドバッグをたたいていました。
「お待たせしました」
練習が終わると、軽やかな声で声を掛けてくれました。そして、子どものころの思い出から家族のことまで、話してくれたのです。
その取材ノートを見返すと、こう書いてありました。
「ボクシングくらいなら、やったってもええわ」
これは、村田選手が荒れていた中学生の時、担任だった北出忠徳教諭に言った言葉だそうです。
北出教諭が「何かやりたいものはないのか」と村田選手に言った時、こう答えたそうです。これが、ボクシングを本格的に続けるきっかけとなったのです。
そんなエピソードを本人から聞いても、「昔はワルだった」というイメージがわいてきませんでした。ボクサーの目って、こんなに優しいものなのだろうか、なんて威圧感を見せない選手なのだろう、そんな風に思いながら、話を聞いていました。
今思えば、柔和な物腰には理由がありました。
ボクシングの道をつくってくれた北出さんや高校時代の恩師の武元前川さんへの感謝から、「本当は教師になりたかった」というのです。高校5冠をはじめ、大学・社会人で全日本や国体を何度も制すなど、アマチュア界では実績を積んでいましたが、大学では学生に技術を教える兄貴分として慕われていました。
「伝えることが楽しい。若いやつらが煙たがらず、一緒にやってくれる。10キロ走ならまだ負けない」と、この日の取材でも笑って話してくれました。
「優しい表情」のもう一つの理由が、家族の存在でした。この1年半前に結婚し、長男が生まれて約半年の頃でした。
「子どもの存在は大きいですね」
そう語る村田選手は、ロンドン五輪で金メダルを手にすると、客席の家族へ大きく手を振りました。家族への思いを戦いの原動力にしているのは、プロになった今も同じようです。
この取材の記事が載った新聞を村田選手の自宅に送ると、それはそれは丁寧なメールが返ってきました。
「また取り上げていただけるように精進いたしますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。」
そんな村田選手は、ロンドン五輪で金メダルを取っても泣きませんでした。
そして、こう言いました。
「夢ではなく、目標でしたから。才能で金メダルを取ったわけではないんです。努力で取ったんです」
ミドル級という、世界的に層の厚い階級で世界チャンピオンになれたのも、納得です。
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