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国産旅客機「YS-11」が消えた理由 開発には、あの零戦設計者も…
9月30日は、国産旅客機「YS11」が国内定期便から引退した日です。2006年のことでした。宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」で注目された堀越二郎氏も開発に関わり、戦後初の国産旅客機として親しまれました。「整備に手間がかからず、農耕馬みたいなところがいい」と言われた「YS11」はなぜ引退したのか。その歴史を振り返ります。
「YS11」は、全長26.3メートル、全幅32メートルの双発プロペラ機です。戦後の航空機製造禁止が1950年代に解除され、官民共同出資の「日本航空機製造」が開発しました。
開発には、ゼロ戦の堀越二郎氏、飛燕(ひえん)の土井武夫氏、2式大艇の菊原静男氏、隼(はやぶさ)の太田稔氏と、日本の名機の設計者たちが協力して設計しました。
1964年の東京五輪で全日空が聖火の輸送に使うなど戦後復興の象徴となり、各地の旅客便や海上保安庁で活躍しました。182機が造られましたが、採算が取れず1973年に生産を終えました。
「YS11」の特徴の一つがエンジン音です。離陸時には「キーン」というロールスロイス製独特のエンジン音が滑走路に響きました。
2006年9月30日、鹿児島県・沖永良部島から鹿児島空港への国内定期路線最終便の操縦桿(そうじゅうかん)を握った本村栄一さんは、到着地の天候やフライト状況を客室にアナウンスした後、「ロールスロイス・ダートサウンドをお楽しみください」とエンジン音の紹介で締めくくりました。
本村さんは、新鋭機のようなコンピューター制御ではなかったため、逆に「パイロットの技量が試されることになり、基本をたたき込んでくれた」と語っています。
「YS11」は、なぜ姿を消したのか。その理由は、衝突防止装置でした。
衝突防止装置は、接近するほかの航空機が発信する信号を受信して、空中衝突の恐れのある航空機との衝突回避に必要な指示をパイロットに伝えるものです。
2001年1月の航空法改正で旅客機の大半に衝突防止装置の搭載が義務づけられました。運航年数が長かった「YS11」は猶予期間が設けられましたが、一機当たり約4千万円かかり、採算性から猶予期間が切れるタイミングでの引退が決まりました。
実は、東京・羽田空港の一角で「YS11」の量産1号機がひっそりと眠っています。
2機の試作機を基に改良を重ね、量産化に道筋をつけた1号機で、1964年に初飛行しました。運輸省(当時)が空港の灯火や誘導施設の検査に使い、1998年に引退。99年に国立科学博物館が引きとりました。「YS11のなかでも特に記念碑的価値の高い機体」として、日本機械学会が「機械遺産」に認定しています。
電源を入れると正常に動き、「飛べるように戻せる状態」だといいます。
2010年には、格納庫での年間約900万円の維持費が民主党政権の事業仕分けの対象となりました。2015年を最後に一般公開は途絶えています。こうした現状に関係者は危機感を抱いており、一般展示をめざす動きも出ています。
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