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校内放送「ボカロはダメ」なの?ヒット曲でもメジャーになれない理由
校内放送で「ボカロはダメ」って言われた…「ヒット=メイン」を信じる私たち マイナーって誰が決めるの?
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校内放送で「ボカロはダメ」って言われた…「ヒット=メイン」を信じる私たち マイナーって誰が決めるの?
校内放送で「ボカロ」の曲はダメだと言われた女子生徒。彼女は、自分たちが好きな音楽は「サブ」「マイナー」なものだ、と感じたそうです。でも、メディアが多様化した今、音楽にメインもサブもなくなったと言われます。じゃあ、ボカロを拒否した学校って? ポピュラー音楽研究者の増田聡・大阪市立大学准教授は「メインなき時代というのは幻想です」と語ります。「ヒット」と「メイン」について話を聞きました。
2000年代に入り、音楽の世界でメインストリームの消失が語られるようになりました。
CD以外に、iTunesで音楽を1曲ごとにダウンロードして楽しんだり、YouTubeで無料で音楽を流しっぱなしにする試聴スタイルが登場したり。さらには、ここ1、2年では、Spotifyを筆頭にネットの聴き放題サービスが乱立するまでに……。
その結果、CDの売り上げ上位と、YouTubeの再生回数のランキングが一致しない、といったことが日常茶飯事になりました。そういう流れの中で、メインストリームがどこにあるのか、混乱が生まれたような気がします。
私たちは、やはり、メインなき時代を生きているのでしょうか。
増田准教授にそのあたりの話を聞くと、「それはある幻想にとらわれた偏った見方です」と返されました。
「大衆消費社会では、『量的にヒットしたものが、文化のメインストリームである』という考えが支配的であり続けてきました。その幻想を信じる人からすれば、文化的コンテンツが流通するメディアの種類が増えたことで、文化消費の量的な比較が困難になり、それがメインストリームの消失と映っているにすぎません」
<多くの人々に支持された作品がメインカルチャーを構成する>という考え方自体が、今の時代の私たち「特有」の考えである、と。では、それ以外にメインカルチャーが生み出される回路はあるのでしょうか?
「文化において『主流』と呼ばれるものは、常に二重性を帯びています。量的なものに還元できない質的なものの作用がそこにはあります」
それは「権威」の働きだと言います。
「クラシック音楽は、量的には、19世紀の欧州社会ではメインカルチャーだったかもしれませんが、21世紀の日本社会では量的に少数派です。その意味では、現代日本のクラシック音楽はサブカルチャーであるとも言えます。ただ一方で、クラシック音楽は、欧州のブルジョワ階層の文化として長い歴史を経てきましたし、日本でも学校教育やマスメディアといった文化装置によって権威化されてきたことで、社会の中で正統的な音楽文化の地位を維持し続けてきました」
「ポイントは、『長い期間にわたって支持されたという事実が、当該文化の権威を高める』ところにあります。歌舞伎などの古典芸能もそうですよね」
他方で、日露戦争期から戦後に至るまで日本で最も人気だった大衆芸能「浪曲」は、対照的な道をたどったとも言います。
「浪曲は、日本の近代化、西洋化に取り残された庶民の感情を反映しながら、大正から昭和初期に爆発的人気を博しましたが、高度経済成長期の頃に急速に人気が衰え、加えて戦後左派知識人から日本の封建制の象徴として批判されたこともあって、『主流文化としての正当性』を獲得できませんでした。伝統芸能の中で、浪曲がいま一つマイナーなものであるように映るのはそのためです」
権威がメイン/サブを区分けする……。そこで思い出したのは、ある栃木県内の高校1年の女子生徒(15)の、中学2年生だった時のエピソードです。
給食の時間、日替わりでクラスごとに好きな曲を校内放送で流す行事がありました。女子生徒のクラスでは当時ブームだった「ボーカロイド」の曲を推す声が多く、放送委員の女子生徒が先生に掛け合ったのです。ところがその提案は、却下されました。
理由は「ボカロは機械の声だから」というものでした。
女子生徒は「私たちの聴く音楽はやっぱりマイナーなのかなあと思った」と言います。線引きの理由に納得がいかないまま、結局、ロックバンド「SEKAI NO OWARI」の曲を流したそうです。
増田准教授は「学校がボカロを忌避することで、むしろ生徒の側にサブカルチャー意識が醸成されることになった。学校も一つの文化装置であって、『これはメイン、これはサブ』と区分けする仕組みとして機能します。とりわけ新しい文化は(量的な支持とはさほど関わりなく)『サブカルチャー』として位置づけられる傾向が強い。こうした仕組みは、今も社会のあちこちに確固として継続しています」
「ほかにも紅白歌合戦で誰が選ばれるかどうか、また、学校の音楽教科書に採用される音楽は何か……。それらは社会において『何が主流か』を確認する儀式と言えますね」
もちろん、サブと区分けされたからといって、永遠にサブなわけではありません。増田准教授は、エレキブームが吹き荒れた50年前を取り上げます。
「学校がエレキ禁止令を次々と発したことで、当初は『サブカルチャー化』されていたロックも、歴史の過程を経て、学校に受け入れられるメインカルチャーになっていったわけですが、こういったプロセスは珍しくありません」
「権威の抑圧がサブカルチャーの反発力を生み、やがては社会の多数を包み込む影響力を得ていくーー。『権威の抑圧とそれへの反抗』自体がメインとサブが織りなすダイナミズムを形作っているわけで、その意味では適度に抑圧的な権威がなければ文化は発展しません」
では、ポップミュージックの世界で、メインの二重性を満たしたミュージシャンは誰なのか。増田准教授は「あくまで一例ですが、サザンオールスターズなどは質的な意味でも量的な意味でも『主流のポップス』という位置にあるのではないでしょうか」
確かに、かつてはヒット作を大量に発表し、多くのリスナーの支持を集めましたし、その後、紅白歌合戦にも出場。ボーカルの桑田佳祐さんは、2014年に紫綬褒章を受章しました。デビュー当時は「キワモノ」と評されたこともありますが、歴史の過程を踏んで、文化的な正当性も獲得していきました。「サザンはこんにち日本のメインストリームの音楽だ、と言っても異論は少ないのではないでしょうか」
ところで、量的な支持だけがメインの条件となるという考えが、「いつから」「なぜ」社会で支配的になったのでしょうか。
増田准教授は、東西冷戦構造の崩壊という意外なキーワードを持ち出します。
「冷戦後、共産主義が崩壊し、私たちは資本主義一色に染まった社会の中で生きることになりました。結果、量的に多く消費されたもの、支持されたものが唯一のメインストリームである、という考えが強まっていったのではないでしょうか」
「ただ、繰り返しますが、量的なヒットだけが主流文化を生み出すというのは、一面的です。文化の世界では、多数の支持以外に、多様なイデオロギーを持つ文化装置による権威づけのメカニズムが依然として存在している。それらは社会の異なる局面で、おのおののロジックに基づき『メイン/サブ』と弁別していきます。そういった『異なる価値観の並立と摩擦』が文化の豊かさを育んでいることを忘れないほうがいい」
メディアが多層化し、「何がメインカルチャーか」が見いだしにくくなった今、メインとは何かを改めて考え直す時代に来ているのかもしれません。
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