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戦争末期、陸軍が作った潜水艇の悲劇…密かに建造、終戦2日前に撃沈

2006年、「まるゆ」についての本「陸軍潜水艦隊」を出版した中島篤巳さん
2006年、「まるゆ」についての本「陸軍潜水艦隊」を出版した中島篤巳さん 出典: 朝日新聞

目次

 太平洋戦争末期、「海の素人」である旧陸軍が潜水艇を作っていました。アメリカ軍の主力艦隊との戦いに備えていた海軍が、陸軍に潜水艦を回せなかったため、陸軍が秘密裏に建造。海軍の協力がなかったのにも関わらず、たった4カ月で完成させました。「まるゆ」と呼ばれた「陸軍の潜水艦」。約50隻が極秘に作られ、戦後は残ったすべてが破壊されました。

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海軍の潜水艇、使えず

 陸軍が作った潜水艇は、潜水輸送艇と呼ばれるもので、補給用に作られました。「ゆ」の字を丸で囲んだ暗号名で「まるゆ」と呼ばれました。

 当時の日本は、1942年ごろからアメリカ軍機による攻撃が拡大し、陸軍にとって戦地への補給路を確保するのが重要な問題でした。その際、注目されたのが潜水艇による補給でした。

 通常、潜水艇の運用は海軍の仕事になります。しかし、海軍はアメリカ軍の主力艦隊との戦いに備えており、潜水輸送艇を陸軍にまわすことができませんでした。

密林で見つかった旧日本兵の鉄かぶとや武器などが並ぶ村もあった=2016年9月2日、ソロモン諸島ガダルカナル島、橋本弦撮影
密林で見つかった旧日本兵の鉄かぶとや武器などが並ぶ村もあった=2016年9月2日、ソロモン諸島ガダルカナル島、橋本弦撮影 出典: 朝日新聞
潜航輸送艇は、「ゆ」の字を丸で囲んだ暗号名で「まるゆ」と呼ばれた。
1999年2月21日:まるゆ8号艇 終戦2日前、爆撃で沈没(静岡物語):朝日新聞紙面から
1942年ごろから、米軍機による輸送船への攻撃が拡大し、陸軍は潜水艦による輸送を迫られていた。ところが、米軍の主力艦隊との決戦を控えていた海軍は、潜水艦を陸軍への補給用として回せなかったため、「まるゆ」が建造された。
2006年9月12日:旧陸軍潜水輸送艇の建造過程を追う 岩国の元医師、本出版:朝日新聞紙面から

4カ月の突貫作業で完成させる

 そこで陸軍は、自分たちだけで潜水艇を作ることを決めます。

 しかし、造船所やドックは海軍の管理下で、陸軍の仕事まで手が回りません。そのため、陸軍の潜水艇は、ボイラー工場や鉄工所で建造されました。

 技術やノウハウの蓄積がある海軍の協力がないまま、陸軍は、手探り状態で秘密裏に潜水艇を作ります。

 それでも4カ月の突貫作業で1943年10月には1号艇を山口県下松市にある日立製作所笠戸工場で進水させ、潜水艇による物資の輸送が始まりました。「まるゆ」は全国4カ所で約50隻が造られ、このうち24隻は笠戸工場で建造されたと言われています。

 終戦時に残っていた「まるゆ」はアメリカ軍によってすべて沈められました。

戦争末期「まるゆ」が作られた日立製作所笠戸事業所=2017年3月5日
戦争末期「まるゆ」が作られた日立製作所笠戸事業所=2017年3月5日 出典: 朝日新聞
造船所やドックは海軍の管理下で、陸軍の仕事まで手が回らず、ボイラー工場や鉄工所で建造された。4カ月の突貫作業で43年10月には1号艇を笠戸工場で進水させ、潜水艇による物資の輸送が始まったという。
2006年9月12日:旧陸軍潜水輸送艇の建造過程を追う 岩国の元医師、本出版:朝日新聞紙面から
終戦時、三十四隻が残っていたが、米軍によってすべて沈められた。極秘に造られ、消えていった「まるゆ」を知る人は、ほとんどいない。
1999年2月21日:まるゆ8号艇 終戦2日前、爆撃で沈没(静岡物語):朝日新聞紙面から
「まるゆ」は全国4カ所で約50隻が造られ、このうち24隻は下松市の日立製作所笠戸工場(現・笠戸事業所)で建造された。
2006年9月12日:旧陸軍潜水輸送艇の建造過程を追う 岩国の元医師、本出版:朝日新聞紙面から

終戦2日前に10人が犠牲

 「まるゆ」をめぐっては、終戦2日前に、アメリカ軍の爆撃によって10人が犠牲になるという悲劇も起きてます。

 静岡県下田市の鍋田沖で撃沈された残がいは、6年後に撤去されました。その時、海にこぼれた遺骨の一部は、その場にいた海女さんが仲間に呼びかけ拾い集めたそうです。

 海女さんたちは「海で稼がせてもらっているのだから」と費用を出し合い、近くの寺に納めました。

 2006年、「まるゆ」についての本「陸軍潜水艦隊」(新人物往来社)を出版した中島篤巳さんは、朝日新聞の取材に次のように語っています。

 「海の素人が短期間で潜水艇を完成、運用したということは、人間の可能性の大きさを示したものだ。しかし、それも戦争に使われたのは悲しい」

下田市の大浦八幡にある「まるゆ」犠牲者のための「鎮魂の碑」
下田市の大浦八幡にある「まるゆ」犠牲者のための「鎮魂の碑」 出典: 朝日新聞
一九四五年八月十三日、神社から近い鍋田浦の入り江に停泊していた陸軍の潜航輸送艇が、米軍機の爆撃を受けて沈没。乗組員の十人の若い兵士が犠牲となった。
1999年2月21日:まるゆ8号艇 終戦2日前、爆撃で沈没(静岡物語):朝日新聞紙面から
残がいは六年後に撤去されたが、その時、遺骨の一部が海にこぼれた。たまたま遺骨を見つけた一人の海女が仲間に呼びかけ、みんなで石油缶いっぱいの骨を拾い集めた。「海で稼がせてもらっているのだから」と費用を出し合い、近くの寺に納めた。
1999年2月21日:まるゆ8号艇 終戦2日前、爆撃で沈没(静岡物語):朝日新聞紙面から
中島さんは「海の素人が短期間で潜水艇を完成、運用したということは、人間の可能性の大きさを示したものだ。しかし、それも戦争に使われたのは悲しい」と話している。
2006年9月12日:旧陸軍潜水輸送艇の建造過程を追う 岩国の元医師、本出版:朝日新聞紙面から

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