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駅弁「誕生」から132年、超素朴だった最初のメニュー 進化の歴史
1885(明治18)年7月16日、当時の日本鉄道が大宮―宇都宮間の開通と同時に宇都宮の旅館・白木屋が駅で弁当を売り始めました。諸説あるものの、この弁当が駅弁の発祥と長く言われてきました。それから132年。現在は、3500~4千種類にまで増え、列車だけでなく家で楽しむ人もいるほど、身近な存在になった駅弁。最初の駅弁の「素朴すぎるメニュー」から、戦争、で出稼ぎ、新幹線による変化。駅弁の歴史を振り返ります。
最初の駅弁とされる弁当の中身は、どんなものだったのでしょうか? 気になるメニューは…
「おにぎり2個とたくあん2切れで5銭」
シンプルです。でも何だか旅っていう感じがします。
当時、宇都宮駅前で旅館業を営んでいた白木屋の斉藤嘉平氏が、梅干し入りのおにぎり2個にごま塩を振りかけ、タクアン2切れと一緒に竹の皮に包んで販売しました。
栃木は戦前から宇都宮をはじめ小山、黒磯、日光などに駅弁業者が集中する「駅弁王国」でした。特に宇都宮は白木屋、松廼家、富貴堂と3軒がありました。
なぜ、宇都宮が駅弁王国に? 背景には軍隊の存在がありました。
交通の要衝だった宇都宮は戦前、旧陸軍第14師団などが置かれました。県内のほか、群馬、茨城、長野から集まってくる兵隊に供出する弁当として「軍弁」を駅弁業者が手がけていました。
戦地に向かう若者のおなかを満たした「軍弁」と駅弁には、戦争という接点があったのです。
戦後は東北から東京に出稼ぎ向かう人たちが、宇都宮の駅弁を求めました。年末に帰省する際、30分に1本の臨時列車が黒磯駅に停車。すし詰めの客車から「お~い、弁当!」と手があがり、声がかかったそうです。
1982(昭和57)年の東北新幹線開通、87(同62)年の国鉄分割民営化で駅弁業に転機が訪れます。黒磯駅は新幹線が止まらず大打撃を受けたのです。
JR発足に伴い、駅構内に様々な業種が参入、駅弁店とそば店の独壇場ではなくなりました。県内の駅弁業者は次々と姿を消していきました。
そんな中、老舗として続けているのが松廼家です。松廼家の公式サイトには東北新幹線の写真とともに「駅弁発祥の地」という宣伝文句がうたわれています。
ちなみに、駅弁発祥の地については、宇都宮以外にも、1883(明治16)年上野駅説や1877(明治10)年神戸駅説など、諸説あります。
おにぎりとタクアン2切から始まったとされる駅弁。今では、超豪華弁当から個性派まで、様々な種類の駅弁が生まれています。そんな駅弁から色んな「日本一」を見てみましょう。
「日光埋蔵金弁当」
駅名;東武日光駅(栃木県日光市)など
値段;16万2000円(税込み)
日光鱒鮨(ますずし)本舗が注文を受けて販売しています。日光彫に漆塗りを重ねた弁当箱、金箔(きんぱく)をちりばめた箸、そして、北海道産のタラバガニ、県産の高級和牛、国産大豆使用のゆば、無農薬米などを食材にした料理と、ぜいたくざんまいです。
他にも計6種の日光埋蔵金弁当がありますが、1550円以外は「完売状態」(同社サイト)という人気です。
「青森のぜいたく弁当」
駅名;東北新幹線新青森、七戸十和田、八戸、盛岡の各駅
値段;1300円(税込み)
全国各地で売られている総菜や弁当が商品力やアイデア力、満足度などを競う「惣菜・べんとうグランプリ 2017」(日本食糧新聞社主催)の駅弁・空弁部門で優秀賞を獲得しました。
三沢市の仕出し業「三咲羽(みさわ)や」が作っています。コンセプトは、新幹線を利用するサラリーマンが「ビール片手に楽しめる」ことや「ぜいたく・納得・満足」。
八戸前沖サバと海峡サーモンの握りずし各4貫を中心に田子産ニンニクや茎ワサビ、地元産ゴボウなど地場産品をふんだんに使用しています。
「たっぷり赤牛 牛めし弁当」
駅名;南阿蘇鉄道(南鉄)の南阿蘇白川水源駅
値段;1300円(税込み)
熊本地震後の復興工事で瀕死(ひんし)の重傷を負った南阿蘇村の伊藤幸蔵さんが駅弁の販売を始めたところ、連日完売の人気に。
村から舞い込んだ駅弁作りの仕事に、レシピ本も出版するお笑いトリオ「ロバート」の馬場裕之さんも加わり、一カ月かけて完成させました。
特産のあか牛を甘く煮てご飯にかぶせ、高菜やクレソンなど地元産野菜が添えてあるこの弁当が、「呼び水になって欲しい」と本格的に観光客の戻る日を待ちわびているそうです。
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