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サザエさんが生まれた日、長谷川町子さん似すぎ!描き続けた「庶民」
1946年4月22日、国民的マンガ、サザエさんの連載が始まりました。作者の長谷川町子さん(1920―1992)が、磯野家の個性的なキャラクターを通して描きたかったこととは何だったのか。振り返ります。
終戦翌年の1946年4月、福岡県のローカル紙「夕刊フクニチ」で連載が始まった「サザエさん」は、その後、朝日新聞に移り、1949年12月から夕刊、1951年4月から朝刊で連載されました。
その作品世界は、戦後の日本社会の変遷をうかがわせる貴重な資料でもあると言われています。
アニメ「サザエさん」(フジテレビ系)の放送が始まったのは1969年10月です。原則、日曜の午後6時30分にスタートし、こちらも国民的番組として親しまれています。
初回は、今のアニメからは想像もつかない展開です。
サザエさんはまだ独身。出版社に採用されるが、原稿を受け取ろうとした小説家を怒らせてしまい、初日でクビに。たまたま出会った商社マンのマスオに慰められ、彼の紹介で今度は探偵事務所に就職。お見合いを控える男の素行調査を担当するが、その対象は新聞社に勤めるいとこのノリスケで。
2016年4月に誕生70年を記念して再放送されています。
作者の長谷川さんは、1920年佐賀県に生まれます。1934年田河水泡に弟子入りします。田河は、14歳の時に「のらくろ」で一世を風靡(ふうび)していた漫画家です。その後、長谷川さんは15歳で日本初の女性漫画家としてデビューします。
父親を早くに亡くし、10代のころからマンガで一家を支えてきた長谷川さん。文字どおり骨身を削って「サザエさん」描き続けました。
四半世紀に及ぶ「サザエさん」の連載期間中、3カ月以上にわたって休載したことが計6回あります。
1959年の4~9月にかけて休んだ時には、「ニュースのその後」というコーナーで、休養中の作者の記事が掲載されています。
記事によると、不眠症のような症状に苦しむ長谷川さんの姿が伝わってきます。
「何でもないのに動悸(どうき)が激しくて夜眠れない。睡眠薬を飲んでも、ほとんど毎日、朝6時まで時計の音を聞く」。家族の「あれでよくみんなを笑わせる漫画が考えられるとあきれるほど」というコメントも。
長谷川さんが描いたのは、戦後の貧しい時代でも、高度経済成長期の活気ある時代でも、暮らしの中に笑いを見いだす磯野家の人々です。何げない出来事を詳細に観察し、笑いを見いだせれば、余裕が生まれ、人生をもっと楽しめる。そんなメッセージが伝わってきます。
1959年の元日にはこんな作品も。
(1)晴れ着姿のサザエとカツオとワカメ、そろって「あけましておめでとうございます」。
(2)カツオとワカメ、布団をかぶって寝ている人物を「何かやろうよ~」と起こしにかかる。
(3)すると布団から出てきたのは波平でもマスオでもなく、ほつれ髪の女性。「ここにかいてあるわ」と、2人に紙を渡す。
(4)2人が広げた紙にはこうある。「賀正 本日はつつしんで休業いたします 作者」
読者との距離の近さを感じさせる楽屋オチの作品を、長谷川さんは時々描いていました。
プライベートでは、シャイで人づきあいは少なく、公の場に出ることもほとんどなかったといわれます。
そんな長谷川さんが晩年、取り組んだのが自身の作品を中心に作った長谷川町子美術館です。
姉とともに、作家やジャンル問わず気に入って購入した作品群を収蔵し、我が子のように愛したと言われています。
美術館について、長谷川さんは朝日新聞に寄せたエッセーで次のように書いています。
「シャイな私は開館前のだれも居ない、ひっそりとした展示場で、一つ一つ絵を眺めながら大勢の方と共に分かち合う喜びを、しみじみと味わっております」
長谷川さんは1992年5月に亡くなります。72歳でした。
死去を伝える朝日新聞の記事では、フジテレビでアニメ「サザエさん」を長く担当している久保田栄一・企画担当部長の話として、生前、長谷川さんが守ってほしいと約束していた「三つのこと」について紹介しています。
(1)入院しない
(2)手術しないようにしてほしい
(3)もし亡くなったら密葬してほしい
サザエさんの声を担当している声優の加藤みどりさんは「同性の目から見てもうらやましいくらい、たおやかできれいな方でした。70歳を超えてらしたと聞いてびっくりしたくらいです。長谷川さんがどこかにおられるというだけで、私たちスタッフには心の支えになっていました」と語っていました。
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