感動
「五輪は当然」成田家の末っ子が障害者に…気付いたスポーツの意味
障害者スノーボードで、成田緑夢(ぐりむ)さん(23)が2018年の平昌パラリンピック出場を目指しています。「緑夢」という名前に、あれ?と思う人もいるかも知れません。緑夢さんは、父親の熱血指導で知られる「成田3きょうだい」の末っ子、スノーボードで06年トリノ五輪に出場した童夢(どうむ)さん(31)、今井メロさん(29)の弟です。兄姉と同じく「当然のように」五輪を目指していた時に起きた練習中のけが。競技人生が一変した緑夢さんを突き動かしたのは、SNSから届いた1通のメッセージでした。(朝日新聞社会部記者・斉藤寛子)
2月19日、長野県で行われた障害者スノーボードの全国大会。スノーボードクロスという種目に出場した緑夢さんは、急斜面と鋭いカーブを臆することなく攻め、他の選手を寄せ付けずに2連覇を果たしました。
緑夢さんは、父親が子どもたちのために作ったスノーボードチーム「夢くらぶ」で、童夢さん、メロさんと一緒に1歳からスノーボードを始めました。大阪市の実家の屋上にはトランポリンがあり、空中での姿勢や感覚を磨くためにトランポリンを使っていました。
毎日飛び続けたトランポリンでは、高校2年のときに高校の全国大会で優勝し、12年のロンドン五輪は日本代表の最終選考まで残りました。さらに、その年の冬にはフリースタイルスキーを始め、すぐに日本代表に。13年3月には初出場の世界ジュニア大会で、ハーフパイプで優勝を果たしました。
五輪に出場すること――。それは、小さなころからずっと当たり前だった「成田家の夢」だったといいます。そして、緑夢さんにとって、もう少しで手が届きそうな夢でした。しかし、それはある日突然、遠のきました。
世界ジュニア大会の1カ月後、いつものように自宅でトランポリンを飛んでいました。両足首にスキーの板の重さを想定した2.5キロずつの重りを付け、2回転宙返りで5メートルを飛ぶジャンプを1日に300回繰り返していました。
「飛んだ瞬間に左足が滑った」。体勢が崩れても、「背中から着地すれば大丈夫」。しかし、その時は重りの付いた左足が体の回転についてこなかったのです。前屈の体勢で落下し、左肩が左ひざに強打。「バキッ」という大きな音とともにひざが逆に曲がりました。
前十字靱帯(じんたい)、後十字靱帯の断裂に半月板の損傷。動脈も破裂し、内出血が広がっていたといいます。
「歩けるようになる可能性は20%です」「切断の可能性もあります」
医師は、両親にそう告げました。
病院のベッドでたくさんの管につながれ、絶えず激痛に襲われたまま身動きのとれない状態。両親には「リアルな症状を教えないで」とお願いし、「きっと少し脱臼して、少し骨が折れただけ」と自分に言い聞かせていました。入院は半年におよび、手術は4度。「足は切らないでほしい」と父親が医師に懇願していたと、後で知りました。しかし、腓骨(ひこつ)神経まひで、左ひざから下の感覚を失う障害が残りました。
「スキーに行くぞ」
退院から半年もたたず、父親が言いました。左足を引きずって30分も歩けば、30分は氷水で冷やさなければ腫れも痛みも引かない状態のころでした。痛みに耐えながらスキー靴を履き、夏にはウェイクボードも再開しました。
そんな時、1通のSNSのメッセージに心が揺さぶられたといいます。「けがをしても、頑張っている緑夢君に勇気をもらった」。障害のある人からのメッセージでした。
「自分がスポーツをすることで、誰かを励ませるかもしれない」
初めて、スポーツをする意味を考えるようになりました。五輪は無理でも、パラリンピックがある。結果を出せば、障害のある人やけがで引退を迫られたスポーツ選手たちの夢や希望になれるかもしれない、そう思いました。
痛みは消えず、動かない左足はまるで棒が刺さっているようです。それでも、まずは陸上の走り高跳びでリオデジャネイロ・パラリンピックを目指しました。リオには成績不足で間に合わず、昨年11月から本格的にスノーボードを始めました。
初出場のワールドカップでは4位入賞。上位とは大きな差がありました。「みんな本当に障害があるのか」。競技レベルの高さに、本気になりました。
昔の感覚で滑れば転んでしまいます。義足や同じような障害のある選手に話を聞いては、ゲレンデで練習を繰り返しました。ターンの時に踏ん張りの効かない左足をカバーするために、右手を大きく前に出したり、左手でウェアのパンツをつかんだりしてバランスをとり、コツをつかんでいきました。
今年1月の北米選手権と2回のワールドカップは3連勝。2月には、世界選手権でも3位に入りました。
「五輪もパラリンピックも関係ない。僕の中では同じスポーツだと思う。けがをして、僕がスポーツをすることで誰かの励みになれることを知ったから、パラリンピックに出場して、夢や希望を与えられる選手になりたい」と話します。目指すは、夏冬のパラリンピック出場、そして五輪への夢もまだ諦めていません。
けがをした時の心境やその後について、緑夢さんに聞きました。
――けがをしたときは、何を考えましたか?
「もう五輪は無理かも、って。その先は何も考えられなくて、ずっと頭の中が『五輪……』でした」
――痛みもあるなか、スポーツを再開するのに恐怖はありませんでしか?
「父が『やれ』って。ご存じの通り、父は昔から行きすぎているので。でも、父がいなかったら、自分ではもう一度やろうとは思えなかったから、いまは感謝しています」
――今の目標は?
「パラリンピックで活躍して、障害を負っても夢を追い続けられることを伝えたいです。障害のある人、けがで引退を迫られた人たちの夢や希望になりたいと思います」
――どうしてそう思うようになったのですか?
「けがから復帰して、ウェイクボードの大会で優勝したら、障害のある知人から勇気をもらったとメッセージをもらいました。けがをする前は、大会で勝って『おめでとう』と言われても、その意味を考えることはなかった。でも、障害のある知人からのメッセージにはリアルなストーリーがあって、僕の活躍を喜んでくれた理由が心に届いたんです」
――けがをする前は、スポーツをする意味を考えることはなかったですか?
「成田家は生まれた時から五輪を目指すのが当然の環境で、その理由は考えなかったです。父はその理由を考えていたのかも知れないけど、『父が脳、子どもはロボット』みたいでしたね」
――けがをして、いまのお父さんとの関係は?
「少し前の成田家は、結果がすべてでした。でも、僕がけがをして、昔はどんなにいい成績をとっても褒めてくれなかった父が、今は『頑張ってるな』と言ってくれるようになったんです。それがうれしいんです。スポーツをする意味を僕なりに考えるようになって、かつての父の行きすぎたところも理解できるようになった。いまはお互いに良き理解者で、やっと普通の親子関係になってきたと思います」
――リオデジャネイロ・パラリンピックは見ましたか?
「選手の立ち居振舞いがとても勉強になりました。パラリンピックを目指すようになって、アスリートとして人に見られる立場だと意識するようになりました。結果を出した選手のインタビューの言葉や振る舞いを見て、見習おうと思いました」
――いまはアスリートとしての生活を送っているんですか?
「はい、スポンサーさんの支援を受けて、競技に専念できる生活ができています。平日はトレーニングで、週末は子どもたちにトランポリンを教える教室を開いています」
「今年の1月、2月はずっと海外遠征で連戦続きで、きつかったです。でも、こんな生活を送れるようになるとは夢にも思わなかったので、とても幸せです」
「3月には、パラリンピックが開かれる平昌で今シーズン最後の世界選手権があります。課題もまだまだあるので、克服に取り組みたいです」
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<障害者スノーボード>障害者スノーボードは男女それぞれ、障害の程度によって3クラスに分けられます。ひざ上から下肢障害のあるSBLL―1、ひざ下のSBLL―2、上肢障がいのSB―UL。成田選手は、SBLL―2クラスです。2018年平昌パラリンピックから新競技として実施され、複数の選手で同時に滑走してスピードを競うスノーボードクロス、3回の滑走でベストタイムを競うバンクドスラロームの2種目があります。出場するためには、世界ランキング7位以内に入るか、16、17年に開催される世界選手権で優勝し、出場枠を得る必要があります。
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