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イケメン過ぎる明治の偉人、子孫が語る骨太人生 爆弾抱えて上京

りりしい表情の織田信福。20歳ごろの撮影とみられるという=ひ孫の英正さん提供
りりしい表情の織田信福。20歳ごろの撮影とみられるという=ひ孫の英正さん提供

目次

 高知の自由民権運動家で歯科医の織田信福(のぶよし)(1860~1926)が、「イケメン」とネットで注目されている。「明治のオダギリジョー」という声も。いったいどんな人だったのか? 子孫が今も高知市内で歯科医院を営んでいると知り、訪ねてみた。(朝日新聞高知総局記者・佐藤達弥)

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太い眉毛、真っすぐなまなざし

 信福が1925(大正14)年に建てた織田歯科医院の建物は、今も高知市の中心街にある。戦時下の空襲でも焼け残った。

 その隣に新築した建物で、院長の織田英正(ひでまさ)さん(70)が診察している。信福のひ孫だ。

 写真の現物を見せてもらった。後ろで結んだ髪があふれ、無造作に広がっている。太い眉毛、真っすぐなまなざし。腕を組み、意志が強そうだ。

織田信福(1860~1926) 今の宿毛市に土佐藩士の子として生まれた。東京の歯科医の下で学んだ後、1886(明治19)年に高知・帯屋町で歯科を開業。高知市議会議長や県議も歴任した。妻の竹(たけ)も自由民権運動に加わり、女性参政権などについて新聞に論説を発表し続けた人物として知られる。写真は20歳ごろの撮影とみられるという=ひ孫の英正さん提供
織田信福(1860~1926) 今の宿毛市に土佐藩士の子として生まれた。東京の歯科医の下で学んだ後、1886(明治19)年に高知・帯屋町で歯科を開業。高知市議会議長や県議も歴任した。妻の竹(たけ)も自由民権運動に加わり、女性参政権などについて新聞に論説を発表し続けた人物として知られる。写真は20歳ごろの撮影とみられるという=ひ孫の英正さん提供

手製の爆弾を持って上京

 人となりを尋ねると、「僕が生まれる前に亡くなっているので面識はありません」。そう言って、「高知県医師会史」「高知県歯科医師会七十年史」といった分厚い本を本棚から引っ張り出してきた。

 一連の資料や英正さんによると、信福は高知県西部の宿毛に土佐藩士の子として生まれた。東京の歯科医の下で学んだ後、今の高知市内で歯科を開業した。

 当時、医師の中には知識人として民権思想を受け入れ、運動を支えた人たちがいたという。信福もその一人で、「七十年史」には「直情径行、熱血溢(あふ)るる快男児」と書かれている。

 各地の民権家が上京して言論の自由や税の軽減などを訴えていた1887年には、一緒に自由民権運動をしていた若い医師らと手製の爆弾を持って上京した。

刀を差した姿の織田信福。ひ孫の英正さんは「侍を気取ったのかも」=英正さん提供
刀を差した姿の織田信福。ひ孫の英正さんは「侍を気取ったのかも」=英正さん提供

政府の厳しい圧迫、退去命令

 当時、政府は運動に厳しい圧迫を加えていた。「高知県歯科医師会百年史」は、信福が同志の若い医師を集めて「刀圭(とうけい)自由党」をつくり、「政府に対して不穏な直接行動に出ようとしていた」と記す。

 刀圭とは医師のことだ。「七十年史」は混乱の社会情勢が「彼らを駆って、ここに至らしめたものである」と擁護する。

 だが、爆弾が実際に使われることはなかった。政府が秘密集会などを禁じる保安条例を作って、運動への弾圧を強めたからだ。

 信福たちも、東京に着いてまもなく当局から退去命令を受けた。帰路の道々、爆弾を捨て、残りのすべては琵琶湖に投げ捨てたという。

50代のころの織田信福。1914(大正3)年に撮影された=ひ孫の英正さん提供
50代のころの織田信福。1914(大正3)年に撮影された=ひ孫の英正さん提供 出典: 朝日新聞

「写真を使わせて」ポスターや雑誌に

 その後は歯科医業をしながら伝染病の予防や飲酒の利害について講演し、医学の知識を広めた。高知市議会の議長や高知県議を歴任。キリスト教にも入信して教会の長老も務めた。

 実は、くだんの写真は1980年代の写真集にも載っていて、以前から世に存在が知られていた。

 英正さんの父親の代から「写真を使わせて」との問い合わせが企業や出版社からあり、ビールの新聞広告や、写真雑誌の表紙に採用されてきたという。

織田信福の写真が使われた広告を手にするひ孫の英正さん=高知市升形の織田歯科医院
織田信福の写真が使われた広告を手にするひ孫の英正さん=高知市升形の織田歯科医院 出典: 朝日新聞

HPで公開「イケメン過ぎてワロタwww」

 8年ほど前、英正さんが歯科医院のホームページで写真を公開すると、それを見た人が次々に感想をネットに。

 掲示板には「イケメン過ぎてワロタwww」などと書き込まれ、経歴に関する情報を集めた「まとめサイト」も登場した。

 今年2月にはテレビ朝日「マツコ&有吉 怒り新党」でも「幕末明治のイケメン偉人」の一人として紹介された。

織田歯科医院のホームページ
織田歯科医院のホームページ 出典:http://oda-dental-office.jp/

「ご先祖、かっこいいですね」

 英正さんは「患者さんと話していても『ご先祖、かっこいいですね』と言われます」と苦笑いする。

 信福の言葉かどうかはわからないが、織田歯科医院には「時代に対応しろ」という家訓がある。

 「伝統にあぐらをかかず、最新の知見を採り入れて良質の医療を提供しなさいということです。私も東京の学会で何度も論文を発表してきました」と英正さんは言う。

織田信福が1925年に建てた織田歯科医院。今は右側の建物が診療に使われている=高知市升形
織田信福が1925年に建てた織田歯科医院。今は右側の建物が診療に使われている=高知市升形 出典: 朝日新聞

骨太イケメン元祖をたどると…

 高知の偉人といえば真っ先に思い浮かぶのが幕末の坂本龍馬だ。倒幕後の日本のあり方を考えながら、志半ばで暗殺された。妻おりょうとの新婚旅行など甘いエピソードも残した。

 司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の人気もあって、今も根強いファンがいる。龍馬こそ、信福を生んだ高知の元祖骨太イケメンなのだろうか。

京急立会川駅近くに立つ坂本龍馬像=東京都品川区
京急立会川駅近くに立つ坂本龍馬像=東京都品川区 出典: 朝日新聞

龍馬は大先輩?

 日本近代史に詳しい筒井秀一・高知市立自由民権記念館長(60)に尋ねた。

 「幕府を倒すのに貢献した龍馬と、明治政府に人々の自由や権利を求めた自由民権運動。民権家が、龍馬を『体制に異議を申し立てた大先輩』ととらえていた可能性はあります」

 「東洋のルソー」と呼ばれた思想家で、民権家の中江兆民(1847~1901)も高知市の生まれ。やはり龍馬に私淑していた。

織田信福の人気にあやかり、館内で販売されているクリアファイルを手にする筒井秀一館長=高知市の市立自由民権記念館
織田信福の人気にあやかり、館内で販売されているクリアファイルを手にする筒井秀一館長=高知市の市立自由民権記念館 出典: 朝日新聞

世界に恥じない国家づくり

 高知の民権家で新聞記者、坂崎紫瀾(しらん)(1853~1913)は1883年、小説「汗血千里の駒」を地元紙に連載した。龍馬の人生を描いた物語だ。

 最終回の挿絵には、龍馬のおいで民権運動の指導者だった坂本直寛が描かれた。「龍馬の魂を、民権家のおいが継いで頑張っている、という意味です」と筒井さん。

 「龍馬がめざした『世界に恥じない国家づくり』は民権運動が担っている、と坂崎は言いたかったのでしょう」

 龍馬に憧れた民権家たち。はたして信福もそうだったかはわからない。ただ、土佐の骨太なイケメンの系譜にあることは間違いないようだ。

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