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スポーツ競技、翻弄される「性分化疾患」
スポーツ競技で一般的な女性の身体とは異なる特徴を持つ「性分化疾患」の女性選手は、五輪などの国際競技に出られないのだろうか? 翻弄(ほんろう)される、何人もの選手たちがいる。リオ五輪が残した課題の一つとして考えてみたい。(ジャーナリスト・小林恭子/「論座」筆者)
8月20日、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手は女子800メートルを1分55秒28で走りきり、金メダルを獲得した。
この時、6位に終わったのが英国を代表したリンジー・シャープ選手だ。競技終了後、シャープ選手はBBCのインタビューの中で、涙ながらにこう述べた。
テストステロンの値が高い女性選手たちと競うのは「本当につらかった」。
シャープ選手が、セメンヤ選手や、2位のブルンジ代表フランシーヌ・ニヨンサバ、3位のケニア代表マーガレット・ワンブイ選手を指しているのは明白だった。3人とも男性か女性かを判定する性別検査を受けたことがあるからだ。
昨年7月以前は競技に有利と見られるテストステロンが過剰な女性選手は抑制剤を摂取するなどの規制があったが、これが撤廃されたことで「勝つのがとても難しくなった。ベストを尽くしたのに」とシャープ選手は続けた。
シャープ選手は1分57.69秒で走り終わったが、メダルを取れなかったカナダやポーランドの選手と抱き合う様子をカメラが捉えた。「私たちは一心同体よ」というメッセージが伝わってきた。
シャープ選手の前にゴールインし、5位となったポーランド代表ジョアンナ・ジョズヴィク選手は後に「白人としては2番目にレースを終えた」と発言したが、南アフリカ、ブルンジ、ケニアを代表する有色人種の選手対英国、カナダ、ポーランドを代表する白人選手という構図も見えてきた。
走り終わった直後に他の選手と抱き合うシャープ選手に手を差し伸べる格好で立っていたのがセメンヤ選手だ。近年、性別検査問題でもっとも注目を浴びた一人だ。
低音の声と筋肉質の体を持つセメンヤ選手は子供時代から「男の子のような女の子」としていじめられてきたという。
男なのか? 女なのか?
セメンヤ選手は、「性分化疾患(Differences of sex development=DSD)の可能性があると言われている。DSDは、何らかの原因で性染色体や性器などが非典型的な状態で生まれてきたことを示す疾患で、テストステロンという男性ホルモンの値が高くなるなどといったこともある。出生時には全く疑われず、女性として育ってきた。
2008年、アフリカ陸上選手権女子800メートルで自己記録のベストを4秒上回るパフォーマンスを見せた時、セメンヤ選手は18歳だった。将来、五輪でもメダル獲得は夢ではないと大きな期待がかかった。
その一方で、ほんの1カ月ほど前に出した自己記録を大きく更新させたことで、不審の目が向けられた。その後も記録更新が続き、国際陸上競技連盟(IAAF)が検査に乗り出した。急激な記録更新にはドーピングの疑いがあるからだ。
2009年、セメンヤ選手は思いがけないスキャンダルに見舞われる。
世界陸上選手権ベルリン大会の女子800メートルの決勝まできていたが、競技開始の数時間前にIAAFの検査には性別検査も含まれていたことをメディアがすっぱ抜いたからだ。
この時までにセメンヤ選手のパフォーマンスに対して悪意のある声も出るようになっていた。
金メダルはセメンヤ選手が獲得したが、同じく決勝まで残ったイタリアのエリサ・キュスマ選手は「彼女は男よ」と発言した。セメンヤ選手がドーピングをしているという噂も絶えなかった。
IAAFが秘密裏にセメンヤ選手に性別検査に行っていたことが発覚すると、「人種差別ではないか」という大きな批判が巻き起こった。
間もなくしてIAAF側は性別検査を行っていたことを認め、セメンヤ選手が「まれな医学的状態」にあり、このために「不当な優位性を持っていないか」を調査した、と説明した。
検査の結果が出るまでの11カ月間、セメンヤ選手は国際的な競技に出ることができなくなった。IAAFがセメンヤ選手のパフォーマンスには不正なことはないとする判断を出したのは2010年7月6日だった 。
この年の秋、英国の左派系週刊誌「ニューステーツマン」はセメンヤ選手を「50人の重要な人物」の一人として選んでいる。その理由は「世界中のジェンダー差別解消運動のインスピレーションとなった」ためだ。
ベルリンの世界選手権後、IAAFは、テストステロンの値が高い女性選手は他の選手に対して不当な利点を持つと判断した。
そこで、2011年、テストステロン値で女性選手の参加を制限する規定を作った。競技に参加するには、この設定枠を超えないようにテストステロンの分泌を抑制する薬を飲むことが条件となった。
2012年のロンドン五輪で南アフリカ選手団の先頭に立って旗を持つ役目を果たしたセメンヤ選手は800メートルで銀メダルを獲得した。IAAFによる規制によって、テストステロン抑制剤を摂取していたとみられる。もし抑制していなければ、金メダルを取れたという人もいる。
今回のリオ五輪ではセメンヤ選手や同様の状態にある選手は、抑制剤の摂取をせずに競技に参加することができた。別の選手がIAAFのテストステロンの値の高い選手についての規制に挑戦し、2017年夏まで、その適用が停止されたからだ。
インドの女性短距離走のデユティ・チャンド選手は 2014年、 英連邦選手権の開催2週間前、性別検査で不合格となり、参加を断念せざるを得なくなった。セメンヤ選手のように、男性に多いホルモンの分泌量が一般的な男性に見られる量に達していたのである。
チャンド選手は黙って引き下がらなかった。
スポーツ仲裁裁判所(CAS、本部スイス)に対し、男性ホルモンを物差しとして性別を決定するテストの有効性を問う訴えを起こしたのである。昨年7月、CASはIAAFのテストステロンの値の高い女子選手についての規制を2年間、停止する、とした。裁判には勝ったものの、チャド選手のスポーツ選手としてのキャリアは一時停止された。というのも、ホルモン抑制療法や性器の手術などの「矯正」処理に同意しなかったため、英連邦競技やアジア大会に参加することができなかったからだ。
一方、男性が女性として競技に参加した例は過去にあった。
例えば、ドイツ人の走り高跳びの選手ドーラ(ハインリヒ)・ラチェン選手だ。1936年の五輪ではもう少しで銅メダルを獲得するところだった。男性が女性として競技に参加することを防ぐため、国際オリンピック委員会は性を確認するためのテストを1968年に始めている。
しかし、このテストによって、決して意図的に性別を偽ったわけではない性分化疾患の女性選手があぶり出されていくこととなった。
1930年代に最速の女性選手として知られたステラ・ウオルシュ選手(ポーランド人だが後に米国籍を取得。元の名前はスタニスラフ・ワラシェビッチ)は死後の1980年代、性分化疾患だったことが判明した。
当初、国際オリンピック委員会による性別テストは女性選手に下着を脱いでもらう方式をとったが、次第にその手法は頬の内側から標本を採集し、染色体を調べる形に変化した。女性であればXX、男性であれば XYという結果が出るからだ。
しかし、これでXYの染色体でも女性に生まれ育つ選手が必ず優位になるとは証明されなかった。性分化疾患の女性は、テストステロンの値が高くても、全体もしくは一部しかそれに反応しない体の状態が多いからだ。
1985年、スペインのハードル競技のマリア・ホセ・マルティネズパチオ選手の場合、染色体XY型だった。しかし、彼女の場合、テストステロン値が高くても、それが有利にならなかった。
こうした性別テストの結果、人生が暗転する選手は少なくない。
2006年のアジア競技大会女子800メートルで銅メダルを獲得したインドのサンティ・サウンダラジャン選手は性別テストで失格となり、メダルを剥奪(はくだつ)された。うつ病に陥り、自殺未遂を試みた。
線引きが難しいという声もある。
一部の女性の場合、通常の男性のレベルでテストステロンを分泌していたり、五輪に出場するほど高い技能を持つ選手の場合、男女の間でテストステロンの値にそれほどの違いがなかったりするからだ。
このため、そもそも、テストステロンがスポーツのパフォーマンスの決め手になりうるのかどうかについて疑問を呈する声が出ている。
1秒の何分の一をも競うスポーツであるからこそ、どんな不当な要素も見逃さない監視の目が強くなる背景があるが、2020年の東京五輪では性分化疾患はどう扱われるのだろうか。
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お詫びと訂正:2016年09月22日に配信した本記事について、筆者の小林恭子さんから不正確な表現があり、修正をしたいという申し出がありました。リオデジャネイロ五輪で金メダルを獲得した南アフリカのキャスター・セメンヤ選手を巡る出場資格問題で、性分化疾患(DSD)への理解が不十分でした。何らかの原因で性染色体などが非典型的になる疾患で、テストステロンという男性ホルモンの値が高くなるなどといったこともあります。本記事では「両性具有」など適切ではない表現がありました。筆者と編集部の確認が不十分だったことをお詫びするとともに、筆者と相談のうえ、見出しや文章を修正しました。(2019年8月27日、論座編集部・withnews編集部)
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