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演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間

超党派の「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」設立総会に臨む(手前から)コロッケさん、瀬川瑛子さん、公明党の漆原良夫中央幹事会会長、杉良太郎さん、自民党の二階俊博総務会長、民主党の高木義明国対委員長、日本歌手協会の田辺靖雄会長、山本譲二さん=2016年3月23日
超党派の「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」設立総会に臨む(手前から)コロッケさん、瀬川瑛子さん、公明党の漆原良夫中央幹事会会長、杉良太郎さん、自民党の二階俊博総務会長、民主党の高木義明国対委員長、日本歌手協会の田辺靖雄会長、山本譲二さん=2016年3月23日 出典: 朝日新聞

目次

 「日本の伝統が忘れ去られようとしている」。そんなかけ声と共に、演歌を保護・振興する機運が高まっています。ただ、歴史をひもとけば、生まれは1960年代後半と浅く、しかも、誕生直後は、ロックのように反体制・アウトロー的な価値観をまとっていました。それが今や、伝統をことさらに強調し、体制の保護を求めるまでに。演歌の数奇な歩みをたどってみました。(朝日新聞東京編集センター記者・河村能宏)

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大御所がロビー活動

 今年3月23日、演歌や歌謡曲の復活を後押ししようと「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が超党派の議員により、設立されました。自民、公明、民主、共産など80人の議員が終結。杉良太郎さんや山本譲二さん、瀬川瑛子さんら演歌界の大御所も出席し、世間の演歌離れを防ぐ手立てを考えていく方針を確認。設立準備会で、杉さんは「日本の伝統が忘れ去られようとしている」と危機感を示しました。
  
 杉さんの言葉がまさに象徴的ですが、昨今では、演歌と聞いて「日本の心」「日本の伝統」といった連想は、違和感なく受け入れられています。

超党派議員の会合に出席した、歌手の杉良太郎氏(左から2人目)と自民党の二階俊博総務会長(右から2人目)=2016年3月2日、東京都千代田区
超党派議員の会合に出席した、歌手の杉良太郎氏(左から2人目)と自民党の二階俊博総務会長(右から2人目)=2016年3月2日、東京都千代田区 出典: 朝日新聞

もともと「Jポップのようなもの」だった

 けれども、故・島倉千代子さんが「この世の花」(1955年)でデビューした時も、北島三郎さんの「なみだ船」(62年)がヒットした時も、実はジャンルとしての演歌は存在していませんでした。「現代用語の基礎知識」に初登場したのは70年版です。

 昭和初期、大衆音楽の世界は、レコード各社の専属作家が活躍した時代で、彼らがジャズやハワイアン、マンボような外来音楽に、端唄や都々逸などの日本的音楽要素を交配させては雑多に新しい音楽を生み出し、ヒット曲を模索していました。それらはおしなべて「流行歌」という名の風呂敷に包まれ、それは今で言うJポップのようなものでした。

「この世の花」でデビュー後もヒットを連発、スター歌手になった1967年当時の島倉千代子さん
「この世の花」でデビュー後もヒットを連発、スター歌手になった1967年当時の島倉千代子さん 出典: 朝日新聞

流行歌の一部がジャンル化

 ただ高度経済成長期の到来で一変します。人々の生活様式や価値観が急変。音楽においても、さきほどの風呂敷に収まらない『グループサウンズ』『フォーク』といった新しい音楽が日本社会に急速に浸透。結果、皮肉なことに、流行歌は、相対的に古くさいものに位置付けられます。

 演歌はそんな端境期に、産声を上げました。

 音楽評論家の北中正和さんは指摘します。

 「それまで日本の発展を支えてきた人々の一定数は、音楽も含めた社会の大きな変化に戸惑いを覚え、一昔前の価値観や様式に郷愁を覚えるようになった。その思いをすくいとる形で、流行歌の一部が『演歌』の名でジャンル化したと言えます」

グループサウンズが熱演するゴーゴー喫茶=1968年11月8日
グループサウンズが熱演するゴーゴー喫茶=1968年11月8日 出典: 朝日新聞

五木寛之さん「艶歌」の存在感

 では、具体的にどういう流れで、ジャンルとしての「演歌」は誕生したのか。カギを握るのは、作家の五木寛之さんです。

 「創られた『日本の心』神話 『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」の著者で、大衆音楽史に詳しい大阪大学の輪島裕介准教授は、五木さんが66年に発表した小説「艶歌」に着目します。

 作品は、演歌のヒットに心血を注ぐ音楽ディレクターを描いた物語です。そこで「庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う」のが艶歌だとし、「艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しない」「独りぼっちで生きてる人間が、あの歌を必要としている」などと登場人物に語らせています。

野坂昭如さんと雑談する五木寛之さん(左)=1967年、東京・四谷
野坂昭如さんと雑談する五木寛之さん(左)=1967年、東京・四谷 出典: 朝日新聞

文化をリビジョンさせた

 輪島准教授は言います。

 「五木さんは、雑多な流行歌の中から、田端義夫や春日八郎、こまどり姉妹のような、特に曲に哀調を帯び、『貧しさ』や『不幸』を強調して歌う流行歌の固まりを抽出して、『艶歌』とカテゴライズし直した。そして、『そこに日本人のアイデンティティーがある』『これが日本の庶民の魂だ』と位置付け、高度経済成長を是とする体制側の価値観に反発する姿勢をとりました」

 社会の都市化、近代化に伴い、「恥ずべきもの/捨てさるべきもの/克服すべきもの」として否定的にとらえられていた性質に「庶民の情念」といった新たな価値観を付与し、文化をリビジョン(改訂)させたというわけです。

 作品から3年後。五木さんの理念を体現するかのような歌手藤圭子さんがデビュー。そのすごみのある歌声で人気を博します。

藤圭子さん=1970年12月17日
藤圭子さん=1970年12月17日 出典: 朝日新聞

演歌がロックと似ている?

 この変容の過程は、ほぼ同時代に生まれたロックのそれと酷似しています。

 「娯楽的なポップミュージックとしてのロックンロールは、大学生が中心となった民謡復興運動に由来するフォークのプロテスト性と結びついたり、1920−40年代に流行したアメリカ黒人音楽であるブルースを『抑圧された人々の魂の叫び』と読み替えて象徴的な基盤にしたりして、『シリアスな自己表現としてのロック』に変容しました」

 「それは、過去の流行歌の諸特徴から、とりわけ『アウトロー』『重い情念』みたいな性質を強調する演歌に変容した過程と、似ていますね。あの時代、演歌のような現象が世界で同時的に起こっていたと言えるかもしれません」(輪島准教授)

石川さゆりさん=2012年11月29日
石川さゆりさん=2012年11月29日 出典: 朝日新聞

 ロックのように、アウトローな存在として登場した演歌ですが、その後、「伝統」「日本の心」といった側面をまとっていきます。輪島准教授は続けます。

 「五木さんの理念は、70年代以降、レコード会社やメディアによって『日本の心を歌う伝統音楽』という意味に変化し、『演歌』と表記されて広がりました。そこには、『日本を再発見』という意味合いで、国鉄(現JR)が行ったキャンペーン『ディスカバージャパン』のような運動も一役買ったと言えるでしょう」

 その後、五木ひろしさんや八代亜紀さん、石川さゆりさんらスターが次々と誕生します。さらに、ぴんから兄弟のように、過剰に小節を利かせ、保守的すぎる女心を歌う音楽的特徴も生まれ、『伝統音楽』としての演歌のイメージも強化されていったのです。

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