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「新聞にはもう、伝播力がない」 保育園ブログ、佐藤卓己さんの不満

保育園ブログについて「新聞の存在感が小さかったですね」と語る京都大の佐藤卓己教授
保育園ブログについて「新聞の存在感が小さかったですね」と語る京都大の佐藤卓己教授

目次

 「保育園落ちた 日本死ね!!!」のブログが社会問題となっていく中、メディア史を研究する京都大の佐藤卓己教授は新聞の鈍い反応に不満を抱いていたといいます。ニコニコしながら「国民レベルで感情を広める力は、もう新聞に期待できないね」と言うのです。(聞き手 朝日新聞地域報道部記者・田中聡子)

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「新聞の存在感が小さかったですね」

 ――今回の騒動をどのように見ていましたか。
 新聞の存在感があまりにも小さかったですね。ネットでブログへの賛否が飛び交っている最中に、ブログにつづられた個人の怒りを理性的な議論に導いたり、この課題をどう政策につなげるべきか道筋を示したりすることができたはずです。少し前の新聞なら、ちまたの庶民のために息にも耳をすませ、それをすくい上げていたはずです。

 ブログで発せられた感情が政策に反映されていくという今回のプロセスの中で、中抜きされているのが新聞だということが、非常に印象的でした。これでいいんですか?

「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した書き込みが話題になったブログ
「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した書き込みが話題になったブログ

「若者が国会前で叫んでいるような写真ばかり掲載する」

 ――何が原因でしょうか。
 最大の理由は、読者の大半が高齢者で、子育て世代が圧倒的に少ないことでしょう。年金とか自分たちの老後に関する記事は熱心に読まれるけど、保活や婚活している若い読者に読まれる記事が決定的に少ない。

 新聞社内部もかなり高齢化していて、物事を受け止める感度が鈍ってはいませんか。

 たとえば、昨年の反安保のデモの報道で、シールズなどの若者が国会前で叫んでいるような写真ばかり掲載する。「若者が政治を変える」という議論は、戦時中に「若者が日本を救う」と特攻隊を賛美した無責任さと似たり寄ったりだと感じます。私が反安保のデモをいくつか見た限り、先頭と後ろは若者だったけど、大半は高齢者でした。絵になるカットで現実を処理してるってことでしょう。

 「政治運動といえば若者だ」という60年代の「青春」リバイバル願望がありありで、ついでにバギーを押してる女性でもいれば「普通の人が参加している」という70年代市民運動へのノスタルジー。21世紀の現実とずれている。

 安保の問題を若者という視点で論じるポーズが、そもそも現実から目をそむけています。反安保デモで見えたのは、いまのシルバー政治運動の規模とその限界です。

 朝日新聞が正月から始めた「18歳キャンペーン」も、「こういう若者に期待しましょう」っていう高齢読者向けのメッセージじゃないですか。

国会前で安保法反対を訴えるSEALs(シールズ)のメンバーら=2016年3月28日
国会前で安保法反対を訴えるSEALs(シールズ)のメンバーら=2016年3月28日 出典: 朝日新聞

「紙媒体こそ変えるべきです」

 ――だから肝心の若者からそっぽを向かれてしまうと。
 そうですね。むしろ若者は、被害者にも見える。新聞がつくりあげた若者に「代弁」されることによって、発言力を封じられているのかもしれない。もちろん新聞が目の前で起きていることを言葉に加工するということは、たとえ建前が前面に出てきたとしても、交渉や要求を民主的に進めるには必要です。

 でもそれが、インパクトのある写真を載せて「若者が運動してます」と見せることだとは思いません。口を開かない大多数の若者の思いの中から、政治の場に伝わる言語を見いだすことにエネルギー費やした方がいいんじゃないでしょうか。

 ――発信された感情を報じることが新聞の仕事ではないということですか。
 今回、ブログの感情を国民レベルで広めたのはテレビでした。そういう役割は、もう新聞には担えない。感情を「広める」のではなく、議論の土俵を提供する機能に特化すべきなのでしょうね。

 ――新聞記事をどんどんネットで発信していけば、今回のブログのような役割も担えるのでは?
 紙媒体の聖域を守るために、配信しているネット向けの記事なんて、うまくいきませんよ。紙媒体こそ大胆に変わるべきです。ネットに完全に飲み込まれる前に、ネットを紙媒体に飲み込むチャレンジが必要です。今回だって、ネットの動きを追いかけて解説する常設ページでもあれば、対応はまるで違ったはずです。

国会議事堂の衆院常任委員長室からのぞむ正門前の道=2015年12月25日
国会議事堂の衆院常任委員長室からのぞむ正門前の道=2015年12月25日 出典: 朝日新聞

「いまは批判に過剰反応しすぎ」

 ――紙をやめるメディアも増えてきました。
 毎日継続的に読まれる紙媒体の視線は、「いま、ここ」よりも安定した、長く広い時空間に向けられています。新聞を読むということは、過去から未来へと続く知識や思考が自分の中に蓄積されていくことです。それが「輿論指導」には不可欠です。私は世論(せろん)と輿論(よろん)を使い分けます。ポピュラー・センチメンツの世論は熱しやすく冷めやすい「空気」です。一方の輿論は、時間に堪えるパブリック・オピニオンで、過去と未来を見据えた議論を前提とします。

 ――いまも新聞に輿論を導くことが求められているのでしょうか。
 世論のメディアとして、新聞がネットに勝てますか。反対に、いまのネットに輿論をゆだねることができますか。世論は「空気」なので、そこに責任感はありません。オピニオンである輿論には当然、責任が伴います。輿論を指導すれば責任を問われるし、間違ったら批判されます。世論を反映していれば、「悪いのは空気だ、国民だ」と逃げられます。世論を反映するだけなら、ジャーナリズムとは言えないはずです。それでいいのですか?

 ――最近しきりに言われる「報道の中立」と「輿論指導」は相反するように感じます。
 いまも昔も、新聞は「偏向している」と批判されてきたと思いますよ。そうした権力との摩擦も織り込み済みで新聞は言論を担ってきたはずです。いまは批判に過剰反応しすぎなんでしょうね。

 「輿論指導」で大切なのは、説得の必要もない「お仲間」に向けて記事を書くことじゃない。掲げるオピニオンに賛成とも反対とも態度を決めかねている、説得可能な中間層をどう納得させるかが大事です。安保の時のような「反対、反対」ばかりの論調では、結局世の中は変わりません。

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 「保育園ブログに負けたのは?」は4月16日発行の朝日新聞夕刊紙面(東京本社版)「ココハツ」と連動して配信しました。

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