IT・科学
『理科系の作文技術』、81刷100万部を突破 異例のヒットの理由
1981年に発売された中公新書『理科系の作文技術』(木下是雄著)が今月の増刷で累計100万部を突破しました。本書の魅力や誕生秘話を探りました。
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1981年に発売された中公新書『理科系の作文技術』(木下是雄著)が今月の増刷で累計100万部を突破しました。本書の魅力や誕生秘話を探りました。
1981年に発売された中公新書『理科系の作文技術』(木下是雄著)が今月の増刷で累計100万部を突破しました。実に81刷。ネット通販のアマゾンでは中公新書の中で最も売れている一冊で、文理問わず学生や社会人に読まれ続けています。この本の魅力と誕生秘話に迫りました。
100万3千部――。物理学者で学習院大学学長を務めた木下是雄氏(きのした・これお、1917-2014)の著作『理科系の作文技術』の今月15日時点での累計発行部数です。
刊行点数は2300を超える中公新書シリーズですが、ミリオンセラーを達成したのは、102万3千部の『「超」整理法』(1993年発売、野口悠紀雄著)に次ぐ2冊目。どんな内容の本なのでしょうか。
著者は序章でこう述べます。
「私がこの書物の読者と想定するのは、ひろい意味での理科系の、わかい研究者・技術者と学生諸君だ。これらの人たちが仕事でものを書くとき――学生ならば勉学のためにものを書くとき――に役立つような表現技術のテキストを提供したい」。
確かにページを繰ると、「数式の書き方」という項目があったり、物理の単位記号が登場したりして、理系層がターゲットなのは一目瞭然です。
ですが、著者が繰り返し指摘しているのは「事実と意見を区別すること」と、「明快・簡潔な文章を目指すこと」。
前者については「事実の裏打ちがあってはじめて意見に説得力が生まれる」として、自らの主張の根拠になっている客観的事実だけを具体的に正確に書くことを求めています。そして「明快・簡潔な文章」とは、人の心を高揚させたりうっとりさせたりする心情的な要素が一切含まれていない文章だとしています。
「不要なことばは一語でも削ろうとするうちに、言いたいことが明確に浮き彫りになってくるのである」。
「理科系の~」と銘打たれてはいますが、実はこの本、どのような立場の人であれ文章を書くときに注意しなければならないポイントを分かりやすく丁寧に解説しているのです。
改めてヒットの理由を考えてみましょう。中央公論新社・新書編集部の田中正敏さん(38)は「タイトルのうまさ」を指摘します。
「この本は『理科系の』とうたってはいるんですが、実際にはビジネスマンの方だったり、文系の学生でもレポートの執筆のために手にとって下さっているようです」
「確かに、この社会では文章を書くときに『事実と意見の峻別』だったり、『明快で簡潔』が求められることがあります。この本はそれに応えるための作文技術の解説本であって、ほかによくある名文を書くための本ではありません。それを『理科系の』としたことで見事に言い尽くせているんだと思います」
田中さんによると、アマゾンで売られている中公新書の中では、ほぼ決まってこの本が「ベストセラー1位」の座をキープ。「12年には大学生協の月間新書ランキング1位にもなりました。こんなに息長く読まれ続けている新書はなかなかありません」
「新書サイズ」という手軽さも好評のようです。三重大学地域イノベーション学研究科の三島隆准教授(44)は「いつでも学生が読めるように」と研究室にこの本を置いています。
「ほかにも初回の授業の時に、文章の書き方の資料の一つとして、必ず紹介することにしています。200ページちょっとでとても読みやすい。これからもこんな本は必要になってくるんじゃないでしょうか」
東京・八重洲ブックセンター八重洲本店の担当者は「このタイトルで、かつ新書というのが素晴らしい」と絶賛。さらに700円(税抜き)という安さも人気の理由に挙げます。
「81年というかなり昔に出版されているのに、『学会講演の要領』なんていう章もあって、今でも十分通用する内容。論旨明快で、横組みで読みやすいですし、これが700円で売られているのはすごいことです。これからも新入生や新社会人など、新しいことに挑戦する人にもっと読んでもらいたいので、当店でも何らかのアクションを起こしたいですね」
ところで、『理科系の作文技術』は戦後まもなく中央公論社(当時)が創刊した科学雑誌『自然』で連載された記事がもとになったものでした(1979年6月号から隔月掲載)。
連載時のタイトルは「何を書くか どう書くか」。木下是雄氏にこの連載を提案した、同社元編集者の佐々木久夫さん(71)に、タイトルの狙いなどについて話を聞きました。
――どういう経緯で木下先生に文章論を書いてもらうことになったのでしょうか。
「私が中央公論に入社したのが1968年。当初は文学全集や単行本を担当していたんですが、73年に『自然』編集部へ行きました。私自身文系の出身ですし、今までまったく縁のなかった分野でした」
「これから教科書を読み直すのもなあ、と思って入社した年からの『自然』のバックナンバーを読み返しました。そうしたら先生の『~であろうの背景』といったエッセイや、担当になってからも文章論をテーマにしたものがあったんです」
「つまり『自分の思想や実験を言葉で伝えるにはどうしたらいいか』というのがテーマなわけですから、文系の人にとっても大変重要な話題ですから、これを連載にして本にしたらいいと漠然と思いついたんです」
――タイトルを決められたのは木下先生ですか。
「たぶん先生から出してこられたんだと思います。当初のタイトルは連載通りの『何を書くか どう書くか』で、サブタイトルが『理科系の作文技術』だったんです」
「出版社としては、読者に訴えたり、書店の人にどういう本かを説明したりするためには『理科系の作文技術』の方が明確でいいと、連載中から先生にお話ししていました」
「もう一つ、連載中に『何を書くか、どう書くか』という単行本がたまたま他社から出たんです。間に『、』が入っている本。この時は先生が大変憤慨されていたんですが、連載のタイトルというだけですから抗議もできず、結果としてメーンタイトルにできない理由にもなりました」
――「理科系の」とうたうことで、文系読者に読んでもらえなくなる可能性は考えませんでしたか。
「それはありました。ただ、文系の人からすれば『ああ、理科系の人ってこんな風に文章を書くんだ』とよく理解できると思ったんです。さらには自分の文章の指針にしてもらえるのではと。理科系の人にも役に立つし、文系の人にも参考になるというぴったりのタイトルだと思いました」
――新書にするというのは当初からの案だったんですか。
「1カ月おきの連載ですから単行本にしようとすると、何年もかかります。もうちょっと早く本にまとめた方がいいんじゃないかと、新書しか考えていませんでした」
「結果的には新書にしてよかった。単行本だとここまで長く売れることは難しかったんじゃないでしょうか」
「でも当初は『新書だから売れる』という考えがあったわけではありませんでしたね。誰でも手にとってもらえる値段と大きさだから選んだというくらいです。この前にも語学の入門書とか『知的実用本』と呼んでいたシリーズがありましたので、そうしたものとの相性もいいと考えました」
――ついに100万部達成したことで、木下先生も喜んでらっしゃるでしょうね。
「もちろんお喜びにはなるでしょうが、科学の世界には色んな大事な数字があってね。例えば6×10の23乗(アボガドロ定数)とかね。そういうのがあるから100万という数字は珍しいものでもなくて、たくさんある数字の一つだろうと、こう思っているでしょうね」
「この本を大学時代に読んだ人が、学校の先生や大学の先生とかになって教え子に勧めてくれたりとか、ボロボロになった本を買い替えたりとかで、読み継がれてきたんでないかと私は思います。35年間、毎年、毎年重版されていくというのは本当に『この本を作ってよかったな』と思いますね」
――佐々木さんが木下先生に連載を提案しなかったら、『理科系の作文技術』は世に出ていなかったですね。
「そう言っていただけたらうれしいです。多少は勉強した方がいいなと思ったことが、こうしたことになって」
「こちらから連載企画を提案しなくても、もらった原稿だけを出してればよかったんですが、たまたま面白い原稿がたくさんあるいい雑誌で、それが企画をひらめくことになりました」
「先生に最後にご報告したのは97万部くらいでした。先生のお弟子さんたちと『100歳と100万部を一緒にお祝いできたらいいね』と言ってました。100歳のお祝いができなかったのは残念ですが、100万部のお祝いはできますね」
◇
木下是雄(きのした・これお):1917年、東京生まれ。東京大学理学部物理学科卒業後、名古屋大学助教授、学習院大学教授。81~85年に同大学長を務める。『理科系の作文技術』のほか、『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫)、『日本語の思考法』(中公文庫)などの著作も。2014年、96歳で死去。
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