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盛田幸妃氏死去 名ストッパー、マヒから復活 お立ち台で貫いた美学
横浜ベイスターズや近鉄バファローズ投手として活躍した元プロ野球選手の盛田幸妃(こうき)さんが亡くなったことが分かりました。
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横浜ベイスターズや近鉄バファローズ投手として活躍した元プロ野球選手の盛田幸妃(こうき)さんが亡くなったことが分かりました。
横浜や近鉄で投手として活躍した元プロ野球選手の盛田幸妃(こうき)さんが亡くなったことが分かりました。45歳でした。現役中に脳腫瘍(しゅよう)になりながらも復帰を果たした盛田さん。引退後は選手の心に寄り添うプロ野球解説者として懸命に生きてきました。
盛田さんの訃報は所属していたHBC北海道放送が16日午後、ツイッターで伝えました。
【訃報】プロ野球の大洋と近鉄で活躍した盛田幸妃さんが亡くなりました。盛田さんは函館有斗高校出身。現役時代、脳腫瘍を発症しながらリハビリで復活しました。引退後はHBCラジオの野球解説者をつとめました。「今日ドキッ!」内のニュースでお伝えしました。
— HBC北海道放送公式アカウント (@HBChokkaido) 2015, 10月 16
盛田さんは1969年生まれ。北海道の函館有斗高(現・函館大付属有斗高)から87年秋、ドラフト1位で大洋(現・横浜DNAベイスターズ)に入団、後に「ハマの大魔神」となる佐々木主浩投手とのダブルストッパーで知られました。
しかし、近鉄バファローズに移籍した98年、悲劇が襲います。6月、右足首に突然激しいけいれんが走りました。当初「何だろう」と思ったそうですが、球団には報告しませんでした。ところが、症状は悪くなる一方。8月になると、マウンド上でもけいれんが止まらなくなり、戦列を離れました。
「結果を出さなきゃという焦りがあったからと思う」。盛田さんは後に朝日新聞の取材にこう答えていました。検査の結果、ゴルフボール大の腫瘍が脳の一部を圧迫していました。14時間に及ぶ手術を受けました。
苦しかったのは手術後です。右半身をまったく動かせず、はしさえ持てません。「しばらくは右半身全体が麻痺していて、ふつうの生活ができるのかもわからなかった。思わず『殺してほしい』と口走ったこともあります」「こんな自分を人には見られたくなくて、面会に来られるのもイヤだった」(2007年11月30日週刊朝日)。
それでも懸命なリハビリを続けた盛田さん。リハビリ中には、かつてともに活躍した佐々木選手が胴上げ投手になりました。「残念ですね」「つらくないですか」。よくそう声をかけられたそうです。「それどころじゃない。自分が治ることで精いっぱいだった」と後に語っています。
電流を足に流して筋肉を動かしたり、補助具をつけて歩く訓練をしたり――。過酷なリハビリ生活を支えたのは妻や球団関係者でした。元々体力があったことで、一般の人より3倍ほど速いペースで進みました。
そして99年10月7日。藤井寺球場最後の日に、盛田さんは復活のマウンドに立ったのです。「このうれしさは、僕だけのものじゃない。病気やケガの人から、勇気をもらった。今度は勝利に貢献して、そういう人たちの力になりたい」
01年6月13日。福岡ドームでの対ダイエー戦に中継ぎとして登板。5回、1死一、二塁のピンチを切り抜け、6回もピシャリ。98年6月27日以来、実に3年ぶりの白星をあげました。手術後初めてのお立ち台。涙は見せず、淡々と喜びを語りました。
「けがで休んで復帰した選手がよく泣くけど、そんなのおれにはできないよ」
この年にチームはリーグ優勝。オールスター戦にも出場し、パ・リーグ「中継ぎ部門」に34万3080票のファン投票1位で選出。「カムバック賞」も受賞しました。「賞を取れたのは、支えてくれた妻と、治療に専念する時間を与えて下さった球団、そしてお世話になった病院の方々のおかげだと思っています」。受賞の時には、支えてくれた人への感謝の気持ちを口にしました。
「リハビリした結果、野球の世界に戻れた。プレーすることで少しでも皆さんの力になれるよう来年も頑張る」。そう話す盛田さんに多くの人が声援を送り、それが盛田さんの力にもなりました。後にこう振り返っています。「ファンの方から『励まされた』という手紙や声援をたくさんいただいた。それが、僕にとってどれだけの励みになったことか」
02年に引退。会見では「自分にやれることは終わったかなと、気持ちの上で満足したことが大きかった」と話していました。
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