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「日本サッカーの父」クラマー氏死去 釜本氏を発掘、五輪で銅メダル
「日本サッカーの父」と言われたデットマール・クラマー氏が亡くなりました。90歳でした。東京五輪に向けた強化のため60年に来日し、日本代表を指導。68年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献しました。
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「日本サッカーの父」と言われたデットマール・クラマー氏が亡くなりました。90歳でした。東京五輪に向けた強化のため60年に来日し、日本代表を指導。68年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献しました。
「日本サッカーの父」と言われたデットマール・クラマー氏が亡くなりました。90歳でした。東京五輪に向けた強化のため60年に来日し、日本代表を指導。68年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献しました。
ドイツ・ドルトムント生まれのデットマール・クラマー氏は、第2次大戦後、ドイツのクラブでプレーしましたが、ひざを痛めて引退。1949年からドイツ協会のコーチになります。東京五輪に向けた強化のため1960年に来日し、日本代表を指導。68年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献し、「日本サッカーの父」と呼ばれています。
その後、バイエルン・ミュンヘンの監督としてチャンピオンズカップで2度優勝。韓国や中国でも指導しました。
クラマー氏は、釜本邦茂氏を見いだした人としても知られています。クラマー氏が、釜本氏のプレーを初めて見たのは京都・山城高校時代でした。当時についてクラマー氏は「すぐに素質を感じた。後は適切なトレーニングと経験を積ませれば良かった」と語っています。
クラマー氏の指導を受けた釜本氏は、日本のエースストライカーに。1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した時の原動力になります。
クラマー氏は「あの当時、彼にはバイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードなど世界的なクラブが注目していた」と語っています。
クラマー氏が来日した当時、日本のサッカーの実力について、次のように述べています。
「世界から孤立していた。日本は1936年のベルリン五輪でスウェーデンを下す歴史的勝利を挙げたのに、その後の24年間は海外との接触がなく、鎖国のような状態だった」
「スパイク、ボール、練習場、すべてが貧弱だった。グラウンドもすべて土で、ローラーで固めたことを覚えている」
クラマー氏は基本の大切さを徹底して教えました。そして、海外のチームとの試合を増やしました。
「日本が欧州へ武者修行するだけでなく、様々なチームを招待した。1年目はロコモティブ・モスクワに1-10で負けた。でもだんだん、試合になっていった」
クラマー氏がよく使っていたのが「大和魂」という言葉でした。
「サッカーは技術とともに精神力も大切だ。規律を守り、自己を犠牲にしてでもチームのために最善を尽くす、大和魂は私の人生観でもあったのです」
クラマー氏は、コーチから退いた後も日本をたびたび訪れており、2014年1月に福岡市であった会見では、予定の1時間をこえる熱弁をふるいました。
会見では東京五輪について「6年は長くはない。その年代にあったトレーニングに常に100%で挑むこと」と話していました。
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