話題
北京の軍事パレードに招かれた日本人「元中国軍兵士」小林さんの戦後
天安門広場の軍事パレードに、1人の日本人が招かれています。東京都に住む95歳の小林寛澄さんです。戦後70年への思いを聞きました。
話題
天安門広場の軍事パレードに、1人の日本人が招かれています。東京都に住む95歳の小林寛澄さんです。戦後70年への思いを聞きました。
2015年9月3日、中国の北京で「抗日戦争勝利70周年」記念行事が行われます。中でも中国政府が力を入れる天安門広場の軍事パレードに、1人の日本人が招かれています。東京都に住む95歳の小林寛澄さんです。日本人でありながら、人民解放軍の前身の一つ、八路軍に参加した経歴を持ちます。軍事パレードに参加する中国人軍人の誰よりも「先輩」にあたる小林さん。戦後70年への思いを聞きました。
小林寛澄さんは1919年に群馬県に生まれました。僧侶としてお寺を守る日々でしたが、1940年に旧日本軍に徴兵され、中国山東省で軽機関銃の射手になりました。
1941年6月、小林さんが所属した部隊は中国共産党軍である八路軍の大部隊と遭遇します。本隊の撤退の援護を命じられた小林さんでしたが、八路軍に取り囲まれて、逃げ場を失いました。
「絶対、捕虜になってはいけない」。そう考えた小林さんは迷わず自殺を図り、軽機関銃で自分眉間を狙って弾を撃ちます。しかし、固定したはずの銃の位置がずれて、一命をとりとめます。そして、そのまま八路軍の捕虜になりました。
最初、小林さんは、脱走することばかり考えていました。八路軍の「思想教育」も受け入れませんでした。しかし、日本語を話せない八路軍の兵士は「ゆーたい(優待)する。ゆーたいする」と、気さくに声をかけくれ、決して手荒な扱いをしませんでした。
次第に警戒心を解いていった小林さん。兵士からもらった「蟹工船」や「社会科学叢書」などの本を手に取り、日本が起こした戦争は間違っていると考えるようになりました。日本への留学経験を持つ将校、張致遠氏の説得に応じ、日本軍向けの反戦ビラを作るようになります。
反戦ビラは、兵士に無駄死をしないよう呼びかけるものでした。偽名を使うことも可能でしたが、小林さんはあえて本名のままにビラを作成し、日本軍の拠点に撒きました。
終戦後は中国で日本人を帰国させる仕事などにつきました。日本には1955年、第12回帰国団で帰国します。帰国後は、中国語の語学を生かし、貿易会社で通訳の仕事をしました。
帰国後は日本の警察当局から監視をされていたこともあるという小林さん。「帰国してから50年もたったある日、警察官から『国際スパイでないことを確認しました。どうもすみませんでした』と言われた」と明かします。
旧日本軍の戦友会に参加した時、八路軍にいた経歴に対して冷やかされることもあったそうです。それでも、小林さんは自分がやったことは正しかったと信じてきました。
「戦争が長引けば、経済もダメになるし、国民も非常に大きな犠牲を払わなければならない。僕らが、中国でやってきたことは、戦争反対です。侵略戦争は、非常に罪悪な戦争です。だから、はやく止めたかった」
中国政府にとっては、抗日戦争に貢献し、軍人としても大先輩にあたる小林さんは、2005年の「抗日戦争勝利60周年」記念行事に招待されています。その時は、八路軍にいたもう1人の日本人、前田光繁さんも参加しました。今年の軍事パレードは、前田さんが98歳と高齢なため参加せず、現在95歳の小林さんだけが出席します。
日本に訪れる中国人観光客が増える一方、政治の舞台では衝突することも少なくない日中関係。小林さんは、両国の未来について「相互理解が必要」と強調します。
「どちらか一方の立場だけ押し通してもだめ。それが政治だと思います。その辺のことを理解しないとだめです。調和を大事にした外交が必要だと思っています」
1/30枚