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沖ノ島、今も戦争の跡 世界遺産候補「神の島」に砲台、古木も伐採

世界遺産候補に内定した福岡県の沖ノ島。戦争中、「神の島」には旧陸軍の砲台が作られ、旧海軍の施設もありました。

沖ノ島に残る砲台の跡=2008年12月10日
沖ノ島に残る砲台の跡=2008年12月10日 出典: 朝日新聞

目次

 世界遺産候補に内定した福岡県の沖ノ島。女人禁制や島に入る前のみそぎなど、厳格なしきたりが守られています。しかし、戦争中、「神の島」には旧陸軍の砲台が作られ、旧海軍の施設もありました。「祭神にお詫(わ)びしたい」。元軍人の中には、戦後、苦しい胸中の明かした人もいました。

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「海の正倉院」世界遺産候補に

 沖ノ島は、福岡県宗像市の沖合約60キロの玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島です。4世紀後半~10世紀初頭の大和王権による祭祀遺跡が確認されています。朝鮮半島製の金の指輪や中国製の金銅製竜頭など豊かな国際色から「海の正倉院」とも呼ばれています。

 2015年7月、2017年の世界文化遺産の登録を目指す候補として、「『神宿る島』宗像(むなかた)・沖ノ島と関連遺産群」を推薦することを、文化審議会が決定。政府は9月末までに暫定版の推薦書をユネスコ(国連教育科学文化機関)に提出し、閣議了解を経て、2016年2月1日までに正式な推薦書を出すことになっています。

沖ノ島遠景
沖ノ島遠景 出典: 朝日新聞
福岡県宗像市の沖合約60キロの玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島。50~70年代の3回の調査で、4世紀後半~10世紀初頭の大和王権による祭祀遺跡を確認。遺物は鏡や玉類、武器、馬具、装身具など8万点(国宝)に及び、朝鮮半島製の金の指輪や中国製の金銅製竜頭など豊かな国際色から「海の正倉院」とも呼ばれている。
2008年12月29日:「神の島」大戦の記憶 原始林に眠る要塞 福岡・沖ノ島:朝日新聞紙面から
2017年の世界文化遺産の登録を目指す候補として、国内から「『神宿る島』宗像(むなかた)・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)を推薦することを28日、文化審議会が決めた。政府は9月末までに暫定版の推薦書をユネスコ(国連教育科学文化機関)に提出し、閣議了解を経て、来年2月1日までに正式な推薦書を出す。
2015年7月29日:宗像・沖ノ島を推薦 世界文化遺産国内候補に:朝日新聞紙面から

すぐそばで日露戦争「日本海海戦」

 沖ノ島では、今も様々なしきたりが守られています。島に入るためには、冬でも、衣服を脱ぎ、首まで海に入って禊(みそ)ぎをしなければなりません。島は女人禁制で、女性は入れません。島内で見聞きしたことを、島外に漏らすことも禁じられています。さらに、一木一草も持ち帰ることは許されません。

 「神の島」とも言われる沖ノ島ですが、日露戦争の時には、近くの海域でバルチック艦隊と日本海軍が衝突した「日本海海戦」がありました。当時の神職が記した日誌が今も残っています。

日露戦争の日本海海戦における日本の連合艦隊の旗艦で、横須賀港に保存されている「記念艦三笠」を見る天皇、皇后両陛下=1968年6月17日
日露戦争の日本海海戦における日本の連合艦隊の旗艦で、横須賀港に保存されている「記念艦三笠」を見る天皇、皇后両陛下=1968年6月17日 出典: 朝日新聞
日露戦争では、近くの海域でバルチック艦隊と日本海軍が衝突した。当時、宗像大社の小使いとして島に住んでいた故・佐藤市五郎さんは、その模様を見ており、一緒にいた神職は日誌に記した。司馬遼太郎「坂の上の雲」にも登場する。
2002年8月4日:海の正倉院 福岡県・沖ノ島:朝日新聞紙面から

重砲兵連隊配備、砲台跡も

 太平洋戦争中は、軍事拠点としても使われました。防衛省防衛研究所図書館に残る「下関要塞守備隊戦史資料」などによると、旧陸軍は1940(昭和15)年、沖ノ島に砲台を設置。96式2連装15センチカノン砲4門を備え、射程は20キロありました。下関要塞守備隊の重砲兵連隊が配備され、敵艦船、特に潜水艦の撃退を任務としました。海軍も艦船を探査する防備衛所を各地に置きました。

 島内には、今も戦争遺跡が残っています。二ノ岳、三ノ岳の中腹を回り、白岳(162メートル)に近づく途中のやぶの中にある弾薬庫。壁の厚さは50センチもあります。島の西部の高台にあるのは、砲台の跡です。頑丈で分厚いアーチ状のコンクリートの壁に囲まれています。

沖ノ島に残る砲台跡近くに残る石垣の構造物=2008年12月10日
沖ノ島に残る砲台跡近くに残る石垣の構造物=2008年12月10日 出典: 朝日新聞
防衛省防衛研究所図書館に残る「下関要塞守備隊戦史資料」などによると、沖ノ島の砲台は、旧陸軍が40(昭和15)年に完成させた。96式2連装15センチカノン砲4門を備え、射程は20キロあった。部隊は下関要塞守備隊の重砲兵連隊。7個中隊が沖ノ島、筑前大島、白島、蓋井島、角島と本土の観音崎に配備され、敵艦船、特に潜水艦の撃退を任務とした。海軍も艦船を探査する防備衛所を各地に置いた。
2008年12月29日:「神の島」大戦の記憶 原始林に眠る要塞 福岡・沖ノ島:朝日新聞紙面から
二ノ岳、三ノ岳の中腹を回り、白岳(162メートル)に近づく途中のやぶの中に突然、斜面を掘り込んで造ったような弾薬庫が現れた。壁の厚さはざっと50センチもある。コンクリートの白い壁は、60年以上前のものとは思えないほど真新しくみえた。紛れもない砲台跡は、島の西部の高台にあった。頑丈で分厚いアーチ状のコンクリートの壁に囲まれていた。
2008年12月29日:「神の島」大戦の記憶 原始林に眠る要塞 福岡・沖ノ島:朝日新聞紙面から

元軍人「祭神にお詫びしたい」

 神職ら限られた人しか入ることができない沖ノ島ですが、戦時中は200人ほどの兵士が生活をしていたそうです。当時、沖ノ島の海軍部隊に所属した元軍人が30年ほど前に出した手紙には、次にような後悔の言葉が書かれていました。

 「千古斧(おの)の入ったことのない原始林を、陸海軍合計200名ほどの男たちの生活のために莫大(ばくだい)な量の古木が伐採された……祭神にお詫(わ)びしたい」

沖ノ島に上陸後、海水でみそぎを終えた人から順に、険しい参道を登って沖津宮を目指す=2005年5月27日、大野明撮影
沖ノ島に上陸後、海水でみそぎを終えた人から順に、険しい参道を登って沖津宮を目指す=2005年5月27日、大野明撮影 出典: 朝日新聞
沖ノ島の第2次学術調査に参加した石井忠さん(71)は今、福岡県古賀市立歴史資料館長。20年ほど前、沖ノ島の海軍部隊に所属した元軍人と手紙を交わした。手紙では、食糧不足でオオミズナギドリやその卵を食べ、炊事、暖房用に原始林を伐採したことを告白していた。「千古斧(おの)の入ったことのない原始林を、陸海軍合計200名ほどの男たちの生活のために莫大(ばくだい)な量の古木が伐採された……祭神にお詫(わ)びしたい」と。
2008年12月29日:「神の島」大戦の記憶 原始林に眠る要塞 福岡・沖ノ島:朝日新聞紙面から

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